セイカ、ショウワ、極東・・・キャラクターノートの世界/ 堤哲哉インタビュー 

堤哲哉

1960年東京生まれの埼玉育ち。仮面ライダーカードの第一人者であるとともに、駄菓子屋カードなど紙モノ全般に造詣が深く、その方面の蒐集・研究においても精力的に活動。

『駄菓子屋グッズ大図鑑DX パチ怪獣ブロマイドからガチャガチャまで』(2006 扶桑社)『日本懐かし駄玩具大全』『昭和特撮カードクロニクル』『日本懐かしカード大全』『日本懐かし特撮ヒーロー大全』(以上2019 辰巳出版)など著書多数。

近年は長年の課題であったキャラクターノートの研究に取り組み、まんだらけの目録『まんだらけZENBU』2020年2月発売号(№97)から、仮面ライダーカードに代わってキャラクターノートの連載をスタートさせた。

仮面ライダーカードのオーソリティが挑むノートの世界

Contents

 1  仮面ライダーカードからキャラクターノートへ

堤哲哉さんがノートを買っているという話はここ数年聞いていた。

堤さんは仮面ライダーカードの第一人者である。1970年代初頭全国のちびっこたちを熱狂させたカルビー仮面ライダーカードを体系化し、その価値を決定づけたのは堤さんだった。1980年代、仮面ライダーカードは十把一からげで売られていた。それらを分類し全体像を明らかにしてゆく作業は、個々のカードの価値を世に認知させる闘いでもあった。当時蒐集が最終段階に至っても或るカードがどうしても見つからなかった。14局の46番。それはずっと闇の中に沈んでいて、コレクターからはその存在すら疑われていた。

堤さんはテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」で全国の視聴者に呼びかけた。当時としては考えられない高額で14局46番を買うと明言し、ついにそのカードを世に引きずり出した。世間は度肝を抜かれ、仮面ライダーカードの値段は跳ね上がった。そしていま、その人の目の前にはノートがある。

「ノートはむずかしい」と堤さんは語る。

昔からノートへの興味は持っていた。子供時代はウルトラQやウルトラマンのノートを買ったし、仮面ライダーカードを求めてショップめぐりをするときもしばしばそのそばにノートがあった。堤さんにとってキャラノートはずっと気になる存在だった。

だが、ノートはむずかしかった。

まず圧倒的な量の多さ。そしておそるべき多種多様さ。漫画、アニメ、特撮、タレント、映画関係、テレビ関係……。とにかく話題になったものはすべてノートになっている可能性がある。キャラクターノートは簡易でその分アバウトで、同じキャラでも描き手によって天と地ほども顔が違った。堤さんはノートを集めながらずっとイメージが定まらなかった。集めても集めてもどこに何がひそんでいるかわからない。その得体の知れなさは、あの仮面ライダーカードを整理した第一人者をもひるませるに十分なものだった。

「ぼくなんかよりノートをいっぱい持ってるひとは何人もいますよ」

そう言いながらも、ノートをそろそろやろうと思うんです、と堤さんがメールに書いてきた。

わたしは読みながら思った。この人の場合「ノートをやる」というのはたったひとつのことしか指していない。ノートを体系化することだ。

ぜひその話を聞かせてほしいとわたしは言った。そして考えた。

ギアはいつ入ったのだろう、と。                                                                                   

『日本懐かしカード大全』(辰巳出版)

 2018年、堤さんは『日本懐かしカード大全』(辰巳出版)という本を出版した。

 かつて仮面ライダーカードの爆発的なヒットをきっかけに、キャラクターを載せた子供向けのカードが次々発売された。いわゆる駄菓子屋カードである。この三大メーカーが丸昌、山勝、アマダ。丸昌と山勝は早くからブロマイドを、キャラ物に食い込みたかったアマダがカードを量産した。

 この本を手がけて堤さんはふと或ることに気が付いた。

「ぼくはこういうカードが好きでずっと集めていて、コンプリートしたなんて言ってたけど、今まで全体の流れを見ていなかったんだな」

  駄菓子屋カードはその都度の流行に敏感だ。漫画、アニメ、特撮、野球、キャラクターはつぎつぎ登場する。その中でたとえばアマダがこれほど真剣にカードを出していたとは今まで知らなかった、と堤さんは語る。アマダという会社がキャラクターの紙物に取り組み続けた長い歴史を今回ありありと意識したのである。

 そうやってちびっこ相手のカードの世界を見渡したとき、紙と印刷のキャラビジネスというものが初めて堤さんの胸の中にすとんと落ちてきた。ノートをやろうと思ったのはそこからだ。駄菓子屋カードはキャラクターの紙物を堤さんに俯瞰させ、ノートの世界へと橋をかけたのだった。

 

 2 さまざまなキャラクターノート

 堤さんはさまざまなノートを取り出した。これらはどれもA5判。

 「ゼロ戦太郎」

 辻なおきの戦記漫画の極東ノート。「キングパワー」という商品名が加刷されているが、商品名なしの一般販売の品もある。このノートは市販品に手を加えて販促用にしたものだ。

 

「ひょっこりひょうたん島」

 ご存じ国民的人形劇のノート。番組は5年間にわたってNHKで放映(196446日~196944日)された。隅にセイカノートのマークと「1965ひとみ座」の印字に版権マーク。左隅に通し番号が見える。

 

「宇宙大怪獣ドゴラ」

 東宝怪獣映画を表紙にした横山ノート。映画は東京オリンピック直前の19648月公開。ちなみに東宝はゴジラシリーズとしてはこの年4月、第4作目の「モスラ対ゴジラ」を公開している。

 

「ウルトラマン」

 「ウルトラマン」は「ウルトラQ」の後を継ぎ、19667月テレビ放映スタートした。ぺギラと戦うウルトラマン。裏表紙にはいろんな怪獣が描かれている。昭和ノート。

「扱うものは絞ろうと思うんです。アニメ、特撮などのノートはやる。テレビ番組や漫画、映画のノートもやる。海外ドラマや海外アニメのノートもやる。でもスポーツやアイドル、歌手などは外す。その時々の流行りもやらない。エリマキトカゲとか」

・・・海外物もやるんですか?とわたしは訊いた。海外キャラはなんだか別枠のような気がしたのだ。それにそこまで入れるとさらに膨大なことになる。

「やるんですよ」堤さんは温厚な顔に決意をにじませた。

「初期のディズニーは省けないのがわかってるし、ぼくたちは海外のものも国産と同じように受け入れて育ってきてるから、そういうのを外す必要もないなと思ったんです」

 子供時代、海外物と国産を地続きに楽しんでいた実感があると堤さんは言う。キャラクターは文字通り海を越える。だから海外作品のノートも当然探索するというのだが、そのことが実際どんな作業に繋がっているのか、わたしは後で聞いてびっくりすることになる。それは後ほど記すことにしよう。

 3 キャラクターノートの歴史

 3-1 「キャラクターノートの時代」の始まり

 1945年終戦。195321日、NHKのテレビ本放送がスタートした。同年8月、民放初の日テレが本放送スタート。プロレスやプロ野球の番組が人気だった。

 

 堤さんは語る。

1958年、テレビの契約件数が100万台を突破したんですよ。少年誌もそれまで月刊誌だったのが週刊になって、59年、『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』が始まった」

 国内で番組を作り出す力の乏しかったこの時期、テレビはさかんに海外ドラマや海外アニメを流していた。

 1958年~59年、「月光仮面」放映(1958224日~597月5日)

日本ヒーローものの元祖とされるこの覆面ヒーローは、放送時間銭湯から人がいなくなると言われるほどの絶大な人気を博した。ここで極東ノートが月光仮面ノートを発売、これが爆発的に売れた。

「これで、キャラ物行けるじゃん、ってことになったんです」

 キャラクターノートの時代がスタートしたのはこの時だ、と堤さん。ノート会社の目は一気にキャラクターに注がれて、主だったノート会社が続々とこの世界に参入した。

「セイカノートの社史に、極東の月光仮面に追随するためディズニーにお願いしてそのキャラのノートを作る、と書いてあるんですよ」

 ディズニー流の洗礼を受けたセイカは圧倒的にアニメを押さえた。1963年(昭和38年)虫プロが誕生し国産キャラビジネスが本格的に始動すると、セイカは虫プロに食い込んで、「鉄腕アトム」以下「リボンの騎士」など手塚の主要キャラクターを手に入れた。セイカノートは日本のキャラクター産業の確立に大きく貢献し、のちにバンダイと提携した。

 昭和ノート(のちにショウワノート。ここでは昭和の表記に統一)も、社史を載せたパンフレット「ショウワノートとTVキャラクターのあゆみ」で、手がけた豊富なキャラクターを年表式に振り返っている。

ショウワノートとTVキャラクターのあゆみ

 堤さんは語る。大手アニメのキャラクターを、セイカ、昭和、極東などが奪い合い、こぼれたキャラを小さい会社が拾っていった。横山ノート、赤松紙工、東海ノート・・乱立勢力がしのぎをけずってゆく。

 セイカと昭和は絶えず張り合った。形の上でもさまざま違った。昭和は右開き、日本ではこれが一般的だが、セイカはやはりディズニー流か、あくまで左開きにこだわった。

 最終的にこの二社の競合が、堤さんのノート研究の軸を構成することとなる。

 

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