セイカ、ショウワ、極東・・・キャラクターノートの世界/ 堤哲哉インタビュー 

 8 のらくろノートとの出会い

堤さんが店をやっているとき、或るおじいさんがのらくろのノートを売りに来た。

「のらくろ」は1931(昭和6)年1月号~1941(昭和16)年10月号まで『少年倶楽部』に連載された田河水泡の人気漫画である。黒い野良犬のらくろの軍隊生活とその後を描き、少年たちから圧倒的な人気を博した。

これが堤さんの特別な1冊。

 ページには持ち主が漢字練習をした跡が残っている。「殲滅」などの語に時代の空気がうかがえる。児童というよりもっと年長の筆跡だろう。発売元は日本童画研究会。堤さんはノートの見返しの漫画をみせてくれた。

「やられた アイタタ」と走るのらくろに「大尉殿 ど・・・どうしました」と部下。

「のらくろが大尉になってるから、けっこうあとの頃に出たノートですね」と堤さんは言う。のらくろは二等兵から一等兵、上等兵、伍長と昇進し、大尉になって軍を依願免官した。作者いわく、二年で満期除隊の軍隊に倣って当初は連載も二年のつもりだったが、その人気ぶりを見た編集長からのらくろを昇進させて連載を続けようと言われた、と。

 そこで金筋一本入った伍長にして発表したところ、ファンが大喜びして、のらくろ君、よかったね、と励ましのファンレターが前より倍になってくるし、のらくろを使った文具、玩具、菓子、楽器、スリッパもあればちょうちんもある、何から何までのらくろずくめの商品がどんと売り出されたから、ここで爆発的のらくろブームが巻き起こったので、私もびっくりしました >(『のらくろ漫画大全』あとがき 1988年 講談社)

水泡自叙伝の巻末の年譜では、1936(昭和11)年の欄にこの現象を載せている。

 のらくろを使った玩具・文房具・人形・陶器・時計・レコード、菓子、貯金箱などあらゆる商品が巷にあふれる・・・のらくろがついていれば必ず売れる時代・・・『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』田河水泡・高見澤潤子)

1930年代、すでにキャラクターノートがあったのだ。のらくろだけではない。冒険ダン吉、タンクタンクローのノートもあった。それが戦争で衰退し、そこから日本人が立ち上がって再びキャラクターに目を向けるには時間が要った。

「こういうのはやっぱり余裕の部分でやりますからね」

戦後すぐはまだ弱い。幾つかのノートが出たとはいえ1959年、極東ノートが「月光仮面」で爆発的なヒットを飛ばして初めて、日本のキャラクターノートは真に立ち上がったのだった。

1959年といえば戦後14年たっている。帳面にただ絵を載せる簡単さなのに、けっこう時間がかかったじゃないか、とわたしなどは思う。身近に無数のキャラが氾濫する現在、キャラクターという存在が生活の中に戻っていった過程を想像するのは容易ではない。まずテレビの普及、そして圧倒的なヒーローの出現、学童という日常の安定。それらがようやく揃ったのがあの「月光仮面」だった。だがいったんその次元を突破すれば、あとはなだれを打つように一気に進んだのだった。

紙製品は簡便で安直で傷みやすい。吹けば飛ぶように存在は軽く、にもかかわらず時折異様な魔力を帯びてくる。それは紙とわたしたちの関わりの深さゆえだろうか。

「おもちゃはいくら高くても数千万円。でも億という値段にゆくのは紙物」

この道に詳しい知人はわたしにそう教えてくれた。

紙が子供向けノートという形をとったとき、それはさらにわたしたちの共通の琴線に触れてくる。書かれて完成するノートという存在は子供の内面にとても近いものだから。

ぎっしり書かれたページには秘密めいた空気。そして書かれていないページは、わたしたちを一気にあの頃の不自由さの中へ引き込んで、うながしながらそこに取り残す。

アトムも鉄人も怪獣もみんなあの日々の中にいる。小さな指でひらかれて書き込まれるのをまだ待っている。

 

(了)

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