『スペクトルマン怪獣事典』は『冒険王』1971(昭和46)年11月号のふろくである。
作品は、『冒険王』で1971年2月号(1月発売)から連載開始されたヒーローもの。同じ1月からテレビ放映もスタートした。
作品はもともと「宇宙猿人ゴリ」のタイトルで始まったが、その後「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」、さらに「スペクトルマン」へと繰り返しタイトル変更したことで知られている。
今回の逸品「スペクトルマン怪獣事典」は、ちょうど『冒険王』でタイトルが「スペクトルマン」に変わったタイミングのものだ。表紙の見返し(表2)「みんなで歌おう!テレビ主題歌」には、「ゴーゴースペクトルマン」と「宇宙猿人ゴリなのだ」の歌詞が並んでいる。
さて、思えば遠くに来たものよ。
前々回から、むかし友だちに見せびらかされた物シリーズをやっている。
『仮面ライダー少年隊手帳』『MJ超兵器百科』そして今回の『スペクトルマン怪獣事典』で3回目だ。だが前2回と違うのは、見せびらかした子のことを自分がしっかり記憶していることだ。Tくんというその子のまわりに人垣ができて、みんながこの事典を見たがった。その子はみな順番に手に取らせて見せてやっていたが、ひとり自分だけには触らせてもくれなかった。そのときのTくんの表情をよく覚えている。
先にも触れたが、「スペクトルマン」はもともと「宇宙猿人ゴリ」というタイトルでスタートした。スペクトルマンはヒーローの名前でゴリは悪役。要はこの作品、最初は悪役の名がタイトルだった。だが悪役の目線からヒーローを描く、などという意識高い系を当時のちびっこが理解できるはずもなく、2月号スタート時のタイトル「宇宙猿人ゴリ」は7月号で「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」に変更され、さらに11月号でただの「スペクトルマン」となって、あえなく普通のヒーロー物に落ち着いてゆくのだった。
その二度目のタイトル改変の『冒険王』11月号(発売は10月)に、この『スペクトルマン怪獣事典』がついたのだ。そしてTくんはクラスにそれを持ってきて、大人気者になったのだが、そこには、以前からこのコーナーで何度も述べた静岡という土地の事情が少々からんでいる。
自分が住んでいた静岡のテレビ環境は、当時、東京から数ヶ月遅れの放映などでちびっこたちの情報網をおおいに翻弄していたが、この「スペクトルマン」でも遺憾なくその実力を発揮した。
1971(昭和46)年1月の放映当初、静岡で「宇宙猿人ゴリ」は土曜日午後7時から放映されていた。これは放映するテレビ静岡がフジ系列だったため、東京のフジテレビと同時間帯であったわけだ。この年4月、NET(現・テレビ朝日)で「仮面ライダー」がスタートした。最初はそれほどでもなかったが、7月に入って2号ライダー一文字隼人が登場すると人気に火が点き、「仮面ライダー」は大ブームとなる。
このNET系列は静岡に存在しなかった。
なんとテレビ静岡は土曜7時の「宇宙猿人ゴリ」の放映を打ち切って、同じ時間帯に「仮面ライダー」の放映を始めてしまったのだ。1971(昭和46)年秋、「宇宙猿人ゴリ」は放映枠を火曜日午後6時に移されて、改めて第1回目から放映スタートした。完全に振り出しに戻ったのである。
東京なら土曜7時にフジで「宇宙猿人ゴリ」を視聴し、NETで7時半から「仮面ライダー」を視ることができただろう。はるか先を激走する『冒険王』。そのあとを追い既に「スペクトルマン」とタイトルが変わった東京の放映を知るよしもなく、静岡のちびっこたちは1から「宇宙猿人ゴリ」と向かい合うのだった。
だが土曜の夜より平日の夕方のほうが、ちびっこにとってチャンネル争奪戦的にも視聴しやすい環境だったとはいえる。Tくんがこの『スペクトルマン怪獣事典』を学校にもってきたのはそんな皆の関心がピークに達した頃だったのだ。
裏表紙 160×130×4mm 手にとってみるとかなり薄い
さて、例によって自分はその数十年後にこれをヤフオクでやっと見つけて入手した。思っていたより薄かった。表紙から裏表紙まで数えて52ページ。
だが中身は充実している。スペクトルマンの能力、必殺技、対決写真、新兵器、宇宙猿人ゴリの解説など、満足感ある内容だ。
圧巻なのは「25大怪獣大行進」。第一話のヘドロンからベガロンまですべての怪獣が1ページずつ写真や図解で紹介されている。
食い入るように見ていたら、Tくんの手元を凝視していた時の記憶がよみがえってきた。
ああそうか、こんなふうに何ページも怪獣の図解が続いていたから、ずっと終わることはないと感じたのだ。たかだか50ページほどの小冊子を分厚い冊子と勘違いしたのだ。ひとり触らせてもらえなかったので、この冊子の薄さがわからなかった。
Tくんはもう自分のことなど忘れてしまっているだろう。
思えば遠くに来たものだ。モノ探しをしていると、いろんなことを思い出す。