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池田誠の「今週の逸品」第15回 ~『週刊少年マガジン』昭和47年4月9日号

「仮面ライダー」世代である。

「ウルトラマン」当時は幼稚園児だ。
当然それもリアルタイムで見てはいた。「ウルトラマン」だけではない。「ウルトラQ」も「ウルトラセブン」も「マグマ大使」も「悪魔くん」も、この辺りの作品全部見てはいた。だがいかんせん幼児、作品世界として理解していたわけではなかったし、情報の載った雑誌も手に入らなかった。欲しいなと思うことはあり、たまに父親や親戚から買ってもらうこともあったが、それもあまり記憶にない。要するに「自分の手の届くもの」という実感がなかった。

だが、「仮面ライダー」は違う。

番組がスタートしたとき自分は小学4年生。小学校の中高学年ともなれば、おこづかいで雑誌を買うことができた。もちろん小遣いには限りがあるから、何を買って何を買わないか、取捨選択に頭を悩ませたが、そんな悩みも含めて「仮面ライダー」の時代の中でしっかり生きていた。だから「仮面ライダー」世代である。

 

さて『週刊少年マガジン』は、この「今週の逸品」第13回でもふれたとおり、休刊した『ぼくらマガジン』のあとを引き継いで、石森章太郎(石ノ森章太郎)による「仮面ライダー」の原作まんがを連載した。これは昭和46年後半のことだったが、その原作まんが連載期間中、『少年マガジン』は「仮面ライダー」の特集やグラビアを一度も掲載しなかった。

ところが連載終了して明けた昭和47年、『少年マガジン』は二度、グラビアで「仮面ライダー」をとりあげた。それも、『ぼくらマガジン』や『冒険王』『テレビマガジン』で出てくるような「仮面ライダーのひみつ」だの「ショッカー怪人図鑑」だのといった記事ではない。『少年マガジン』が載せたのはその舞台裏、いわゆるメイキング特集だった。

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今回と次回は『少年マガジン』が「仮面ライダー」のグラビア記事を掲載した2冊について述べてゆきたい。

まず今回は『週刊少年マガジン』昭和47(1972)年4月9日号

発売は3月24日、その1か月前の2月28日にはあさま山荘事件が終結している。当初学生たちに同情的だった世論も、かれらが仲間を大量に殺していたことが発覚するにつれて、連合赤軍、いや学生運動そのものから離反していった。連合赤軍の活動拠点を示す「アジト」という言葉は、このころ子供たちの間では「仮面ライダー」の敵、悪の組織ショッカーの基地を意味するものとなっていた。

『週刊少年マガジン』昭和47(1972)年4月9日号の表紙には、その「アジト」から這い出てきたかのようなキノコモルグ、地獄サンダー、死神カメレオン、サボテグロン、20体ものショッカー怪人の写真が並んでいる。

なんと豪華な表紙なんだろう。当時、本屋でこれを発見した自分は驚いた。

だが買おうかどうしようかさんざん迷った挙句、自分はその号を買わなかった。「仮面ライダー」の連載はとうに終わっていたし、その時代劇版ともいえる「変身忍者嵐」のまんがも載っていなかった。それに立ち読みでちらっと覗いたグラビアの題名は「かげの英雄只今参上!」。グラビアの1ページ目は、知らないおじさんがタバコを吸っている、よくわからない写真だった。まあいいや、とそのときは思ったのだが・・・。

ところがそれから1ヶ月ほど経った頃、自分は行きつけの床屋でショッカー怪人が20体の表紙の『少年マガジン』を発見した。ページを繰るとなんとそこには、今まで見たこともないような凄いグラビアが展開していたのだ。「仮面ライダー」だけではない。「変身忍者嵐」や「超人バロム・1」などの特集もある。あまりの衝撃に見入っていたら、「その本持って帰ってもいいよ」と床屋の主人が言ってくれ、ラッキーにも自分はそれを手に入れることができたのだ。

この4月9日号のカラーグラビアはすべて4色、15ページにも及んでいる。

グラビアの最初は、仮面ライダーのスーツを身につけてマスクと手袋をはずし、タバコを吸うスーツアクターの姿である。書店で立ち読みしたとき自分が「知らないおじさん」としか見なかった人物は、よく見ると仮面ライダーのからだをしていた。

つづいて、出演のスーツアクターたちが素顔をさらす「かげのヒーロー 仮面をとって全員集合!」、さらに道場での特訓風景、ヘリコプターにぶらさがって演技指導する殺陣師のすがた、「仮面ライダーショー」の様子、「超人バロム・1」が撮影完了したという知らせとともに、バロム・1役と怪人役とがみな仮面をとって笑顔で歩く風景、「変身忍者嵐」のメイキング写真。

正直驚いた。それまで自分は、仮面ライダーの中身は藤岡弘や佐々木剛だと思っていた

「仮面ライダー」放映当初、どこかの雑誌(のちに『TVガイド』だとわかる)でマスクをかぶる藤岡弘の写真が公開されていたし、何よりテレビ放映のクレジットで「仮面ライダー、本郷猛 藤岡弘」「仮面ライダー 一文字隼人 佐々木剛」と出てきていた。てっきり中身は本人だと思っていたのだ。

そうではないことを『週刊少年マガジン』のこの号はまざまざと自分に見せつけた。いや顔つき違うけど藤岡弘だろ、とか佐々木剛だろ、と思い込もうとしたが駄目だった。どう見ても違う人だし、何しろ「中屋敷鉄也さん」だの「大杉雄太郎さん」だの、別の名前まで出てくるのだ。

そうか、中身は違うんだ。自分はそのとき初めてそういう角度から仮面ライダーを見た。

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『仮面ライダー』や嵐、バロム・1の仮面をぬいだ素顔の写真、特訓風景や撮影風景、演技指導やカメラ位置を確認する様子。崖をころがる、水に飛び込むといったシーンの分解写真など、そこには作品がつくられるリアルな模様があった。おもてのヒーローではない、人気番組を支える陰の存在に真正面から光を当てる特集だった。

ふりかえって思う。その頃の『週刊少年マガジン』の立ち位置もさることながら、リアルなちびっこの発想に特撮の楽屋裏は登場しない。だからこそ「仮面ライダー」世代の面々がおとなになった昭和60年代、数々の「仮面ライダー」ムック本はメイキング写真を載せてわれわれを喜ばせた。

当時大学生の読みものとして名を馳せた『週刊少年マガジン』は、ちびっこのものというよりおとなのものだった。「空手バカ一代」「ワル」「火の瞳」「安達ケ原の鬼女」・・・それらはおとなのまんがだった。「天才バカボン」や「オモライくん」のようなギャグまんがだっておとなが読んでも面白い。この号のもうひとつの特集記事は「”フォーク野郎” 天下をとる!?  不振の歌謡界をしりめに、急激にブーム現象をおこしてきたフォーク。テレビを拒否し、金にも無関心という”若者たち”の人気の秘密と未来をズバリ診断!」、これもおとなの読み物だった。

石森章太郎の「仮面ライダー」が『ぼくらマガジン』から『週刊少年マガジン』に移動したのは、自分にとって、そういうことだったという認識がある。

まんがは変わらない。石森章太郎のスタイリッシュでスピード感あふれる世界だ。だが特集の切り口はまったく違う。それはおとなのものだったし、ちびっこの自分に「特撮」というものがいきなりねじ込まれるように入ってきた。

『週刊少年マガジン』昭和47(1972)年4月9日号には、当時の少年誌とは世界観の違う「仮面ライダー」特集が載っている。それは世代の違いでもある。

 

 

 

 

 

 

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