池田誠の「今週の逸品」第8回 1996年サンヨーオールスター斎藤雅樹投げ入れサインボール(in東京ドーム)

モノ集めをしていて運の良し悪しをあまり感じたことはない。

欲しかったモノが手に入るのはもちろん幸運だが、そこに至るまでさんざんショップをまわったり、ヤフオクやメルカリを見続けているのだから、運もあるが努力の結果という感は否めない。
また逃してしまったとしても、根気よく探してゆけば見つかるものだし、現に見つけてきてもいる。

或る友人が言っていた。
「ガチャで当たりを引かなかったことはない」
何のことはない。当たるまで引き続けているだけの話なのだ。

モノ集めにおいては運より執着が肝心だと思っている。執着が金を払わせるし、労をもいとわせない。他人の運を金で買う。そんなことも多い。

だがあのとき、1996年7月21日だけは、まさに僥倖というか、天の恵みを感じた一日だった。

 

平成1の大投手といえば、読売巨人軍の斎藤雅樹投手だと思っている。

これは学生時代から斎藤投手の大ファンだったから言うのではない。いやメジャーリーグに行った野茂英雄や松坂大輔、田中将大のほうが上じゃないかと言う人たちも多いだろう。確かに彼らがメジャーに行かず日本球界に残っていれば、すごい記録をつくったに違いないし、実際に野茂や田中の通算勝利数は斎藤を上回っている。

だが、斎藤の残した、11試合連続完投勝利の日本記録、生涯40回の完封勝利、最多勝5回、最優秀防御率3回、最高勝率3回、沢村賞3回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回、最優秀投手5回、そしてメジャーより登板回数が少ない日本球界での通算180勝96敗、防御率2.72。
これは凄まじい成績としか言いようがない。まさに圧倒的スターである。

ところが斎藤雅樹は、オールスター戦に関してはまったく恵まれていないのだ。

 

斎藤がオールスターに出場したのは、1989、90、94、95、96、98年の6回(1992年は選出されるも辞退)。そのうちファン投票で選ばれたのは、1996年のたった1回だ。
連続20勝を果たした1989、1990年でさえ監督推薦。いったい日本の野球ファンは何を見てるんだ、と、ぼくは地団太を踏んでいた。

しかもあれだけの大投手なのに、オールスターでの成績の振るわないことといったら、無残なほどだった。
全6試合で、登板回数9イニング、失点12、自責点10、シーズン成績からは想像もつかない酷い内容だ。
特に1990年横浜スタジアムなどは二番手で登板し、1アウトも取れず5被安打5失点自責点5。1994年西武ライオンズ球場(現・メットライフ球場)も、先発登板しながら1回5被安打3失点自責点2。
まさに目を覆うばかりの惨状である。

だがこの斎藤雅樹が、たった一度だけオールスターで3イニングを投げ切ったときがあるのだ。
しかも無失点、被安打0。なんと走者をひとりも出さないパーフェクトだった。

1996年、唯一ファン投票で選出された年の第2戦、東京ドームで先発を任されたときのことだ。
その日、ぼくは東京ドームの指定席で斎藤の雄姿を涙ぐみながら見ていた。2年前のオールスターでの斎藤のさんざんな体たらくを目の当たりにしていたからか。いや、それだけではない。ぼくの手には、その日投げ入れられた斎藤雅樹のサインボールがあったのだ。

当時、オールスターでは、試合が始まる前、出場選手ひとりひとりが1個ずつスタンドのファンに直筆のサインボールを投げ込んでいた。ぼくがいたのは3塁側S席、その日東京ドームは日ハムの主催ゲームだったため、セ・リーグは3塁側だった。ちょうどセ・リーグベンチ上だから多くの選手のサインボールが飛んでくる。その幾つかを捕ろうと試みてすべて失敗し、グラウンドに散ってゆく選手たちをぼうっと眺めていた。

そのとき右側からころころとボールが転がってきた。誰かがはじいて逸らしたボールらしい。とっさに拾い上げて、ぼくは目を疑った。見知った斎藤雅樹のサインが入っているではないか。

その日の斎藤の素晴らしい活躍を見ながら、ぼくは自分の幸運を改めて嚙みしめていた。
まったく僥倖としか言いようがない。これは何かのご褒美なのだろうか。

1996年サンヨーオールスター第2戦、あの斎藤雅樹がオールスターで唯一パーフェクトをやった日の投げ入れサインボール。

あれからずいぶん年月が経った。もうすっかり黄ばんでしまったけれど、このボールは、モノ集めに関して運などほとんど当てにしたことのないぼくが、巡りあわせに深く深く頭を下げる逸品である。

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