今回の今週の逸品は『テレビマガジン』1971(昭和46)年12月号、いわずと知れた創刊号である。
「仮面ライダー」関連書籍で最も高額な品のひとつとしてあまりにも有名なこの一品、実際に所有している人も多いだろう。
何もいまさらという感もなくはないが、この『テレビマガジン』創刊号は、いわゆる少年向け月刊誌というもののあり方を一変させた存在であり、やはり外すことはできないのだ。
さて、ここで記したいのは、少年月刊誌から少年週刊誌への流れである。
元来、戦後日本のちびっこたちを支えてきたのは月刊誌だった。
1914(大正3)年創刊の講談社『少年倶楽部』は1946(昭和21)年、『少年クラブ』と改名し、読み物や漫画を盛りだくさんに掲載して少年たちを魅了した。
同じ1946年、光文社『少年』創刊。
1948(昭和23)年には少年画報社『少年画報』(当初は『冒険活劇文学』)。
翌1949(昭和24)年、秋田書店『冒険王』(当初は『少年少女冒険王』)、集英社『おもしろブック』(のちに『少年ブック』)。
戦後数年のあいだに、以上の少年月刊誌がつぎつぎとスタートし、販売数を伸ばしていった。
『テレビマガジン』1971(昭和46)年12月号裏表紙
ところが1959(昭和34)年、『少年マガジン』(講談社)や『少年サンデー』(小学館)といった少年週刊誌が登場し、少年たちの関心をつかんだ。テレビの普及も相まって少年たちのサイクルが一気に変化してゆく時代だった。それまでの1か月周期が1週間周期に変わったのである。
少年月刊誌の休刊が始まった。まず1962(昭和37)年、『少年クラブ』が休刊した。
出版元の講談社は1954(昭和29)年から、より下の年齢向けに月刊誌『ぼくら』を刊行していたが、この『ぼくら』に後事を託した形となる。
一方で少年週刊誌の創刊は続いた。1968年(昭和43)年、『少年ジャンプ』(集英社)1969(昭和44)年『少年チャンピオン』(’秋田書店)。
逆に、追われるように少年月刊誌はつぎつぎと幕を下ろしてゆく。
1969年、『少年ブック』休刊。『ぼくら』は『ぼくらマガジン』と改名して隔週刊化(のちに週刊化)し、『少年画報』も同じく隔週の発売となった。
この流れが行くところまで行ったのが1971(昭和46)年だった。
この年、月刊の『少年画報』『ぼくらマガジン』『まんが王』が立て続いて休刊する。少年月刊誌として残っているのは『冒険王』一誌になってしまった。
今回の逸品『テレビマガジン』創刊号(12月号)が発売されたのは、まさにその年の11月のことだった。
『テレビマガジン』1971年12月号。副題「少年マガジンコミックス」とあり『週刊少年マガジン』との繋がりを誇示するようだが、実態はまるで違っている。
当時『週刊少年マガジン』はどんどん対象年齢が上がり、大学生や若いサラリーマンの読む雑誌となっていた。
加速するサイクルに加え、少年誌という存在そのものが変動していた。
そしてこの時期に創刊された少年月刊誌『テレビマガジン』は、一連の流れの終着点に出現したまったく別形態の雑誌であった。
内容を改めて見てみよう。
まず表紙。仮面ライダーをメインにスペクトルマン、「国松さまのお通りだい!」の石田国松、「天才バカボン」のパパとバカボン、「巨人の星」の星飛雄馬、テレビでおなじみのキャラクターがずらりと並ぶ。他に表紙のタイトルは「ムーミン」「好き!すき!!魔女先生」「タイガーマスク」と、テレビのアニメや特撮ばかりだ。
ページをひらくと、巻頭から「仮面ライダー」のグラビアが始まる。サイクロンでのアクション、戦闘員と格闘シーン、怪人ザンブロンゾとの対決の分解写真、ショッカー本部でゾル大佐を相手にあばれる仮面ライダー、怪人軍団と戦う仮面ライダー、ライダージャンプのバリエーション、さまざまな怪人たち……。なんと17ページにわたって華麗な仮面ライダーの世界が展開される。
そのあとは読者プレゼント(仮面ライダーのソフビ人形がずらりと並んでいる)のページを挟み、2色の特集だ。「仮面ライダー」のサイクロン。サイクロン決戦の様子や兵器、戦法の絵入り解説が7ページ。次に「スペクトルマン」。スペクトルマンの雄姿や怪獣たち、宇宙猿人ゴリの紹介、スペクトルマンの三大必殺技、これらを写真と絵入りで8ページ。ここまで、特撮番組の4色グラビアと2色特集で30ページ以上。
こんな少年誌は今まで存在しなかった。
なお、掲載漫画は赤塚不二夫「天才バカボン」9ページ(扉含む。以下同)がオール4色で、石森プロのすがやみつる描く「仮面ライダー」が18ページ(4色7ページ2色11ページ)、磯田和一描く「巨人の星」が12ページ(2色8ページ1色4ページ)、石川球太描く絵物語「野生の王者」が6ページ(2色4ページ1色2ページ)これらはすべてテレビ放映作品である。
最もページ数の多い「仮面ライダー」でも20ページを切り、あとはすべて10ページ内外の短さだ。
『週刊少年マガジン』でいえばギャグマンガのページ数にも及ばない。
あくまでメインはグラビアや特集でありまんがは添え物程度、そんな感も否めないが、こののち『テレビマガジン』はいっそうこの傾向を強めてゆく。
そしてこの誌面作りが他に大きな影響を及ぼした。従来の少年月刊誌の唯一の生き残り、秋田書店の『冒険王』であった。
『テレビマガジン』刊行後の1972(昭和47)年、『冒険王』は特撮やアニメのテレビ放映作品のコミカライズを主軸に据え、巻頭のグラビアや特集に注力し始めた。
それまでオリジナル漫画中心だった『別冊冒険王』も、1972年夏季号からはテレビ放映の4作品に絞り、巻頭グラビアや2色特集に全体の半分近いページ数を充てた。
なお、次の秋季号から『別冊冒険王』のタイトルの下には『映画テレビマガジン』の副題がつき、カラーが増えて特集ページもほとんど4色となった。
それは『テレビマガジン』によってもたらされた方向への一大転換だった。
『別冊冒険王』1972(昭和47)年夏季号
翌1973(昭和48)年、黒崎出版から『テレビランド』創刊。
ちなみに季刊だった『別冊冒険王 映画テレビマガジン』はこの年、月刊化される。
1976(昭和51)年、小学館『てれびくん』創刊。
どれもが『テレビマガジン』の影響のもと、方向性を同じくして登場してきた少年月刊誌だ。
そして50年経った今もなお『テレビマガジン』『てれびくん』は続いている。より幼年向けになってはきているが、時代の名残がそこに在る。
今回の逸品『テレビマガジン』創刊号(1971年12月号)は、少年月刊誌のターニングポイントそのものだ。
巻頭から華麗に繰り広げられるグラビアと特集は、新しい少年月刊誌のあり方を打ち上げる渾身の気迫に溢れている。