横山光輝作品と生きる ~伊賀の影丸から始まった道/ 今入重一 1  

2017年10月中旬、雨の降る土曜日、埼玉・戸田公園で、今入重一さん主催による横山光輝ファンの集まりが催された。

今回のテーマは「伊賀の影丸」。

会場に入ると、正面のスライドではすでに影丸の人形劇の映像が流れ、壁側には影丸関連の貴重な今入コレクションがぎっしり並んでいた。今入さんは影丸をプリントしたTシャツを着て、忙しく立ち働いている。

3年前の横山生誕80周年から年1回開かれているというこの会に、今回は二十数名が集まった。関東近郊はもちろん、静岡、奈良、福岡、金沢など全国からの参加だった。それぞれの今入さんとの関係も、同人誌オックスから、ドルフィンから、ホームページやツイッターを介して、職場まんだらけを通じて、とさまざまである。アップルBOXクリエート、復刊ドットコムなど名だたる復刻の刊行者たちも顔を見せている。

影丸はじめこれまでの忍者物アニメや映画の映像がスライド上映され、参加メンバーによる「土鬼模様」(横山作品「闇の土鬼」より)の研究発表、あたためている横山歴史物の企画話、横山作品の総ページ数をかぞえた初出リストの配布などが挟まれた。参加者の自己紹介の中にもこの先の復刻の話題あり、初出発見の話題あり。
わたしはじっと座って聞いていた。

これはいったい何なのだろう。

初めてこの会を目の当たりにしたが、これは好事家の集まりというよりほとんど学会に近い。
この中心にいる今入さんという人は何者なのか。
瞠目としかいいようのない感情があった。

聞くところによると、今入さんは小5のとき「伊賀の影丸」を第6部から読み始めた。いつのまにか影丸は無意識にまで浸透し、やがて世界すべてが影丸で溢れた。横山光輝という名を意識したのはもっと後になってからだったが、記憶をさかのぼって正解を掘り起こすように、それはそのまま自分の軸の確認となった。

手塚でもなく石ノ森でもなく横山光輝に憑かれる生き方はそんなふうに始まった。そしてわたしは、雨の降る10月のあの日、その流れの行き着いた豊かな広がりを見たのだった。

 

今入さんは、1953年(昭和28年)京都に生まれた。

終戦後お父さんとお母さんは中国残留の生活でやっと帰国できたのがもう余程経った頃だったが、今入さんが生まれて1年くらいでお母さんはお父さんと離れ、今入さんを連れて長崎・佐世保に移り住んだ。佐世保の崎戸島という炭鉱の島で、お母さんは住み込みで働き、今入さんは、おじいちゃんおばあちゃん、お母さんの弟のおじさんと四人で暮らした。小2の夏炭鉱が閉山し、一家はお母さんのお姉さんの嫁ぎ先である埼玉に引っ越した。そうして今入さんは桶川のおばさんの家に預けられた。

おばさんの家には、今入さんと同い年の男の子、2歳上の男の子がいて三人で兄弟のように過ごした。
「一日10円のおこづかいを貰って、駄菓子屋さんで5円のお菓子を二つ買う、そういうのがくるくるまわってる。マンガの意識はほとんどなかった。せいぜい床屋さんの待ち時間で見るくらいだった」

だが小学校5年生のときおばさんの家から出て、今度は上尾にいるおじさんに預けられることとなった。

「まあそれは前から決まってたのかもしれない」と今入さんは言う。仲の良かった男の子たちと別れ、今入さんは急にひとりっ子みたいになってしまった。

だが他の変化もあった。

「おこづかいが1ヶ月500円になったんです。月の十何日に渡されて、その500円で1ヶ月、自分でやる。今まで1日10円でやっていたのが、月に200円増えた。この200円で何をしようか。マンガを読もうかな、と思った」

別にこれといったものがあったわけではない。時代劇が好きだったからそういうものがありそうな雑誌がいいと思った。その雑誌、『週刊少年サンデー』は当時50円。1ヶ月4週で200円だった。
ちょうど12月、本屋の店頭には新年号が積まれる時期だった。横山光輝「伊賀の影丸」第6部「地獄谷金山の巻」は、『週刊少年サンデー』1965年1月1日号から始まった。

「伊賀の影丸」は1961年~1966年、『週刊少年サンデー』に第9部まで連載された横山光輝の忍者マンガである。

主人公の影丸は徳川幕府に仕える伊賀忍者の一員で、頭領・服部半蔵の指令のもと、甲賀忍者などと激しい攻防を繰り広げる。
基本的に集団同士の対戦スタイルで、個々の忍者がそれぞれ独自の技で競い合う。勝負に負ければ敵も味方もがんがん死ぬ。展開も画面の動きもスピーディでとにかくテンポがいい。

当時、1960年代初頭、戦後の赤本ブームから50年代の貸本漫画や月刊誌を経て週刊誌の時代が始まっていた。1959年、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』創刊。1961年、週刊『少年キング』創刊。横山はこの「伊賀の影丸」で、早くも少年週刊誌という新しい器を自在にあやつっているようにみえる。

「ヨコヤマ先生ばんばん殺しちゃいますから」

今入さんは嬉しそうに言う。

「一応殺し合いなんだけどさらさら流してる。1、2部のキャラ、ほぼ死んでますから」

「影丸って無敵でもないんですよ。怪我もするし。対戦相手によってどう変わるか、誰が生き残るのか。影丸が生き残るのは子供でもわかってるんですけど」

影丸は利発で敏捷で有能だが、誰が見ても少年だ。しかも相手には殺しても殺しても生き返るすさまじい忍者・邪鬼がいたのだ!

 

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横山光輝は後年こう語っている。

「昔は、忍者といえば巻物を口にくわえ、ドロドロと姿を消したり、大蛇を出したり、ガマになったりしたものでした。しかし、それではなんとなくおもしろくなかったので、煙は火薬玉を投げつける、速く動く、武器は新しいものを考える、そしてスピード感を出す・・・そういう新しい一つの忍者の形を造りました。この作品(「魔剣烈剣」)がもとになり、その後「伊賀の影丸」という作品につながっていくわけです」(「魔剣烈剣のころ」)

大正時代、忍者ブームをつくった立川文庫の講談調は、「ドロドロと姿を消したり」のタイプだった。
1958年『甲賀忍法帖』に始まる忍法帖シリーズを発表した山田風太郎は、特殊能力としての「忍法」の対戦を書き、1950年代末~60年代半ばの忍者ブームの大きな原動力となった。
山田忍法帖はいまの少年マンガが用いる「能力バトル」というジャンルの原点とも言われるが、「火薬玉を投げつける、速く動く、武器は新しいものを考える、そしてスピード感を出す」といった新しい描き方と併せて、いち早くこれを少年マンガの筆法に落とし込んだのは横山光輝だった。
ひたすらワクワクする対戦忍者もの・・・・人気は回を追って加速度的に上がり、「伊賀の影丸」は初期サンデーの大看板のひとつとなった。

 

 

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今入さんは『週刊少年サンデー』1965年1月1日号、「伊賀の影丸」第6部「地獄谷金山の巻」から読み始めた。
折しも『別冊少年サンデー』で、第1部からの影丸の総集編が特集された。130円で高くて買えず貸本屋で借りて今入さんは読んだ。
そして文字どおり、取り憑かれた。

「影丸がゴーッと入ってくる。見たことない影丸がわたしの中にゴーッと入ってきた」

それと同時に目の前をいろんな影丸が動き始めた。夢の中にも現われた。

「他の人も言うんですけど、絵が動いている。動くんですよ、さっさっさっ、て。アニメのように」

塀を越える、屋根にのぼる、木から木へ敏捷に飛び移る、背後に無数の木の葉が舞う。
今入さんは夢うつつのように影丸と一緒に生きた。

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