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「あの当時の子供はみんな思ってましたよね。『妖怪人間ベム』や『黄金バット』の、なんともえたいのしれないあの雰囲気は何なんだろうって。
そう、たとえば『ゲゲゲの鬼太郎』は妖怪モノだけど明るい。でも『ベム』や『黄金バット』は、無国籍感がさらに凝縮されてるっていうか。灰色の空、日の当たらない洋館の雰囲気。青空なのにくすんでる感じがした。

森川信英さんは十代の頃にお父様を亡くされて、独学で学ばれてアニメーターをやってらした方なんですけど、当時コピーがまだものすごく高価な時代、ご自分でこういう教則本を作ったんです」

「そうしてひとり韓国に行って、これでアニメを指導したんですね。口の動かし方、タイムシートの描き方、黄金バットが戦うところ、セルのカラーチャートも自分でつくって、それを配ってアニメの作り方を一から指導した。独学で、全部自分で資料を集めて、何もないところから韓国でこういうことをやってた。
ぼくが『妖怪人間ベム』っていう作品にハマったのは、なんかこれ不思議な世界だなあと思ったからなんですけど、森川さんの話を聞いて、そうか、あの雰囲気は、韓国だったのかって。いくら日本で美術ボードを描いてもああなっちゃう。それは森川さんが向こうにひとりで行って、ああやって現地のスタッフと作ってたからなんだってわかった」

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「これは、このアニメインタビューの一人目、北原健雄さんが描いた『ルパン三世』です。
北原さんはどんな絵でも描ける人なんですけど、ルパンはホントに絵が変わっていったでしょう。
最初はね、こんな絵を描いてたんですよ」

「東京ムービーの分裂問題があって、Aプロダクションが移って、北原さんしかいなくなっちゃったそうです。北原さんは、『ルパン』をやりたかったから嬉しいって言って作画監督をやったんですね。最初はやっぱりどこかぎこちないんですよ。だんだん描き慣れてくると、こんなルパンになったんです。カッコいいですよね」

「絵っていうのは変わってゆく。何回も描いてゆく内にやっぱり変わる。モノっていうのは、そういうもの。その人の人生の中に組み込まれる。
ぼくはコレクターじゃない。コンプリートという感覚はない。その人の生き方の航跡をさぐる、そういう糸口としてモノを探している。モノを通じて、明確に、作った人に行きたい。モノは、より深くその人を知るため、その人と対話をするための糸口なんです。

今でこそまんだらけがあって、ネットでもデータがあって、いろいろ発掘されてるけど、昔はわからないですもんね、その人が何を描いてるのか、とか。

1977年、月刊『OUT』の増刊『ランデヴー』の創刊号は、タツノコ特集だったんですよ。ぼくは前からタツノコ作品が好きで、でも資料がないないと言ってたところに初めてカラーのムック本が出た。吉田竜夫の絵が載っていて、これが素晴らしかった。その頃普通の本屋では吉田さんの新書は流通してなかったから、古本屋で探したんです。いい絵ですよね。梁川剛一とか挿絵画家の絵も知ってたけど、全然ひけをとらない。すごいじゃないかと思った」

「『ランデヴー』には吉田さんが絵物語を描いてたというのも出ていて、これも探した。これ、吉田さんの絵物語です」

「この人の絵にはどこか哀愁というか、品の良さがある。下卑たところがない。これ、吉田さんの良さがいちばん現れてると思います。児童文学です。これが吉田さんなんです。
ホントにこの人はすごいなあ。当時アメリカに行ったこともないはずなのに、和テイストでなく描いている。資料もないのに本当にうまい。止まってるのに動いている。ほら、映画みたいでしょう?絵を動かしたいという思いは、その頃からお持ちだったのかもしれないですね。
いま、ぼくは『まんだらけZENBU』のコラム「もっとマンガを知りたい!」の中で「『科学忍者隊ガッチャマン』という奇跡」ってのを連載しています。吉田竜夫があの時代何を考えてやっていたのかを追ってるんです。あれは自分でやってて面白いというか、ああ、吉田さんはこういうことを考えてやってたのか、というのがだんだんわかってくる。そういう、自分が影響受けた作品の人というのを、もう会えないけどこうやって当たっていけるってのは、勉強になりますよね」

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