堤哲哉 / キャラクターノート 2

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 堤さんはさまざまなノートを取り出した。これらはどれもA5判。

 「ゼロ戦太郎」

 辻なおきの戦記漫画の極東ノート。「キングパワー」という商品名が加刷されているが、商品名なしの一般販売の品もある。このノートは市販品に手を加えて販促用にしたものだ。

 

「ひょっこりひょうたん島」

 ご存じ国民的人形劇のノート。番組は5年間にわたってNHKで放映(196446日~196944日)された。隅にセイカノートのマークと「1965ひとみ座」の印字に版権マーク。左隅に通し番号が見える。

 

「宇宙大怪獣ドゴラ」

 東宝怪獣映画を表紙にした横山ノート。映画は東京オリンピック直前の19648月公開。ちなみに東宝はゴジラシリーズとしてはこの年4月、第4作目の「モスラ対ゴジラ」を公開している。

 

「ウルトラマン」

 「ウルトラマン」は「ウルトラQ」の後を継ぎ、19667月テレビ放映スタートした。ぺギラと戦うウルトラマン。裏表紙にはいろんな怪獣が描かれている。昭和ノート。

「扱うものは絞ろうと思うんです。アニメ、特撮などのノートはやる。テレビ番組や漫画、映画のノートもやる。海外ドラマや海外アニメのノートもやる。でもスポーツやアイドル、歌手などは外す。その時々の流行りもやらない。エリマキトカゲとか」

・・・海外物もやるんですか?とわたしは訊いた。海外キャラはなんだか別枠のような気がしたのだ。それにそこまで入れるとさらに膨大なことになる。

「やるんですよ」堤さんは温厚な顔に決意をにじませた。

「初期のディズニーは省けないのがわかってるし、ぼくたちは海外のものも国産と同じように受け入れて育ってきてるから、そういうのを外す必要もないなと思ったんです」

 子供時代、海外物と国産を地続きに楽しんでいた実感があると堤さんは言う。キャラクターは文字通り海を越える。だから海外作品のノートも当然探索するというのだが、そのことが実際どんな作業に繋がっているのか、わたしは後で聞いてびっくりすることになる。それは後ほど記すことにしよう。

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 1945年終戦。195321日、NHKのテレビ本放送がスタートした。同年8月、民放初の日テレが本放送スタート。プロレスやプロ野球の番組が人気だった。

 

 堤さんは語る。

1958年、テレビの契約件数が100万台を突破したんですよ。少年誌もそれまで月刊誌だったのが週刊になって、59年、『週刊少年マガジン』や『週刊少年サンデー』が始まった」

 国内で番組を作り出す力の乏しかったこの時期、テレビはさかんに海外ドラマや海外アニメを流していた。

 1958年~59年、「月光仮面」放映(1958224日~597月5日)

日本ヒーローものの元祖とされるこの覆面ヒーローは、放送時間銭湯から人がいなくなると言われるほどの絶大な人気を博した。ここで極東ノートが月光仮面ノートを発売、これが爆発的に売れた。

「これで、キャラ物行けるじゃん、ってことになったんです」

 キャラクターノートの時代がスタートしたのはこの時だ、と堤さん。ノート会社の目は一気にキャラクターに注がれて、主だったノート会社が続々とこの世界に参入した。

「セイカノートの社史に、極東の月光仮面に追随するためディズニーにお願いしてそのキャラのノートを作る、と書いてあるんですよ」

 ディズニー流の洗礼を受けたセイカは圧倒的にアニメを押さえた。1963年(昭和38年)虫プロが誕生し国産キャラビジネスが本格的に始動すると、セイカは虫プロに食い込んで、「鉄腕アトム」以下「リボンの騎士」など手塚の主要キャラクターを手に入れた。セイカノートは日本のキャラクター産業の確立に大きく貢献し、のちにバンダイと提携した。

 昭和ノート(のちにショウワノート。ここでは昭和の表記に統一)も、社史を載せたパンフレット「ショウワノートとTVキャラクターのあゆみ」で、手がけた豊富なキャラクターを年表式に振り返っている。

ショウワノートとTVキャラクターのあゆみ

 

 堤さんは語る。大手アニメのキャラクターを、セイカ、昭和、極東などが奪い合い、こぼれたキャラを小さい会社が拾っていった。横山ノート、赤松紙工、東海ノート・・乱立勢力がしのぎをけずってゆく。

 セイカと昭和は絶えず張り合った。形の上でもさまざま違った。昭和は右開き、日本ではこれが一般的だが、セイカはやはりディズニー流か、あくまで左開きにこだわった。

 最終的にこの二社の競合が、堤さんのノート研究の軸を構成することとなる。