たかはしちこ(アップルBOXクリエート)

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    たかはしちこ(アップルBOXクリエート)/ プロフィール

    1949年、岩手県二戸市に生まれ、高校時代まで岩手で過ごす。
    大東文化大学卒業後、新橋にあったニューデザインセンター入社。主にテレビの絵コンテを担当する。大学時代知り合った藤田耕司の誘いにより、1971年、同人誌『奇人クラブ』に参加。
    作品に、「ミーコメタモルフォセス」「コトノの冒険」「すーぱーNYANNYAN」など。
    フリーの絵コンテ師時代を経て、新小岩に古本漫画店「なつ漫キング」(現・誓和堂)を開店。同人誌サークル・アップルBOXクリエートを主宰。『少年なつ漫王』『漫画市』などの同人誌を発行し、懐かし漫画の復刻を数々手がける。

    高橋さん談
    「同人誌活動を続けるうち、手塚治虫、美空ひばり、石原裕次郎が他界、昭和が終わり、バブルも崩壊。絵コンテ業をやめ、古本屋を始め、そして30年・・・」

    アップルBOXクリエート連絡先

    124-0023 東京都葛飾区東新小岩2-2-12 高橋誓
    お問い合わせのかたは、上記宛に、往復はがきまたは63円切手を貼ったハガキ同封にてご連絡ください。
    まんだらけ中野店マニア館、神保町/夢野書店、書泉グランデでも扱っています。

     

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    新小岩駅近く、蔵前通りに面したマンションの一階に古書店がある。
    ガラス戸に金色の優しげな字で誓和堂と書かれたその店は一見古書店と気づかず通り過ぎてしまいそうなたたずまいだが、中に入れば貴重な漫画本が溢れ返る、その道で知られたヴィンテージ漫画専門店である。店主は「ミーコメタモルフォセス」などの作品をもつ漫画家たかはしちこ。同時に、アップルBOXクリエートという同人誌サークルの運営者だ。

    現在アップルBOXクリエートは、『少年なつ漫王』『漫画市』というふたつのシリーズを定期的に刊行している。単行本化されていない古い漫画の復刻と、その作品の雑誌掲載時の表紙を並べるなどしてそれぞれ一年に4、5冊ずつ、これに単体での復刻作品を加えて、年間二十数冊を刊行する。アップルBOXクリエートのきわだった特徴はこの、古い漫画の復刻に対する執念ともいえるこだわりであり、その挑戦の深さと長さにおいてまさしく他を圧倒している。

    2018年4月、『少年なつ漫王』は50号を刊行した。古い漫画の復刻は同年夏で三十周年となる。この驚異的な持続を前にして、わたしはほとんど何も形容する言葉を思いつかない。
    ここまで続けるモチベーションは何なのですか、どうしてこれほど復刻をやり続けるのですか、とわたしは訊く。わたしは、強い使命感や情熱を語る言葉を内心期待していたのだけれど、そのような言葉が高橋さんから発せられることは一度もなかった。穏やかな物腰の高橋さんは、元来そういった大上段に構える言葉を持ち合わせないひとのようなのだ。喜びを語るときは控えめで、苦労話を語るときでさえ、どこか第三者の目から見ているような淡々とした雰囲気が漂った。
    そしてただ、積み上げてきた事実だけが途方もなく巨大だった。

    (『少年なつ漫王』50号  今までの復刻リストも収録)

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    高橋さんは語る。
    「いまは復刻が主になっていますが、これはごくふつうの同人誌活動の延長なんですよ。途中から復刻をスタートして、復刻のほうが知名度が上がったんです」

    高橋さんの同人誌活動は、1971年、村岡栄一主宰の「奇人クラブ」という著名な同人誌から始まった。COMで世に知られた「奇人クラブ」は、岡田史子などを輩出し、客分で大友克洋が描いたこともあった。

    「その中からデビューしたり、引退したりして、残ったのがわたしと何人か。それで、ある時から、自分の作品と、何人かに声をかけて、わたしが個人編集をするようになったんです」

    初めはなかなか方向性がつかめなかったという。パロディなどをさかんに載せたが、やがて読者の反応から、懐かし漫画の特集が好評であることに気が付いた。読者からのコメントにこたえる形で高橋さんは復刻に踏み出し、それはいつしかアップルBOXクリエート畢生の事業となっていった。

    (高橋さんの個人編集で、最初に懐かし漫画を扱った同人誌『あっぷる!ぷるる・・』)

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    復刻の準備は何年も前から始まっている。

    長い時間をかけて資料をさがす。次に作家に連絡をとり、ファンが望んでいるから無償で復刻をお許しいただけないかと頼む。つくるのは現在のところオフセット印刷で100部、経費はすべてこちらで持つ。それを通販と二三の古本屋で、2000円ほどで頒布する。
    ちなみにこの100部という数字は、高橋さんによれば、印刷所に出すぎりぎりの線であるのだそうだ。
    「それ以下だとあまりにも印刷代が高くつく。それ以上だと在庫が大変で」
    再版はしない。再版発行も100部からのため、容易には動けないのだ。

    まず、往々にしてこの、作家との連絡がつかない。
    昔の漫画のことで消息不明となっている作者は少なくない。すでに没して遺族の居場所すらわからない場合もある。そういうときはおおむね「ご存じのかたはご連絡ください」とただし書きをつけて発行する。時には断念することもある。そこは状況によりけりという。
    そしてまた、往々にして、連絡がついても許可がおりない。

    1959~60年『少年』誌予告ページ特集号

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    連絡がついても許可がおりない。
    版権を所有する企業やプロダクション、作家や権利者を取り巻く力関係の中で、どこにも所属しない個人の同人誌は最も弱いところにいる。
    「特に、自分が読者として親しんだ作家さんに対しては、恐れに似た憧れがあって、直に訪ねていって復刻をお願いしたいということがなかなか言えない。後ずさりしてしまう感覚があります」と高橋さんは言う。

    個人で作家にたどりつき、理解をもらうことの道のりは遠い。
    理想的なのはファンの人やファンクラブが作家への橋渡しをしてくれることだ。ファンの協力を得ないと、結局企画が流れたり、うまくいかない部分が出てくるのだそうだ。

    復刻のため作家と接している内、ファンから作家の耳に悪意をもった噂が入ることがあるという。そのファンは高橋さんが作家と親しそうにしているのを不快に思ったのかもしれないと高橋さんは語る。まったく関係ない人がご注進という感じで悪口を言ってゆくこともあったらしい。
    「こちらのやっていることを邪魔だと思えば、悪口はなんとでもいえる。それも、まるきりの嘘でなく本当のことに想像をまじえて書く。だからいかにも本当らしくみえる。そういうのを書くなら直接質問してくれればいいのに」

    勝手につくって勝手に儲けていると噂を流されたときは、その回ばかりでなく他の回にまで影響が及んだ。それまで気持ちよく接してくれていた先生が態度を変えたことも何度もある。許可をもらったのに、1~2冊復刻してからダメといわれたこともある。許可されたはずなのに許した覚えはないと言われ、逆らうこともできずお詫びしたこともある。その復刻からは撤退する。
    「そういうときは、わたしも心が折れるんで」と高橋さんは言う。

    無版権で雑なものをつくってインターネットで高値で売るひともいるが、高橋さんはそういうことはやりたくない。
    「そこまでやって得るものはお金以外ないんですよ。そして悪評が立つ。わたしは臆病だから、そんなふうにやるものは楽しくない。やっぱり、よく出してくれた、懐かしかったというような一定の評価はされたいんです」
    人から喜んでもらうことが、高橋さんの最も望む評価なのだ。

    1959~60年『少年画報』誌予告ページ特集号

    作家や遺族から喜んでもらった時もある。

    うしおそうじ「どんぐり天狗」は、かつて作家に許可を求めて返事を保留されていたが、ファンの会社の出版トラブルの余波を受け、話が頓挫してしまった。十数年経って作家の死後、偶然うしお氏の息子さん、作曲家の鷺巣詩郎氏と面識を得ることができ、「おやじのを出してくれて嬉しい」と快諾された。
    岡友彦「白虎仮面」も、息子さんから好意的に受けとめてもらえた嬉しい例だった。

    うしおそうじ

    鷺巣

     

    ( 岡友彦

    次は何を復刻しよう、そう考えることは楽しい。
    高橋さんが読者として考えているのは同世代の人たちだ。自分と同じ時代を共有した人たちから、懐かしかったですなどの反応が来ると嬉しいという。年金暮らしで、だんだんこういうものを買うことも少なくなってきている人たちが、高橋さんの復刻の主な予約者である。
    これまで一度も同人誌をやめようとは思わなかった。待っていてくれる読者たちへの責任ということも頭にあった。この先やめようと思うのは、仲間に迷惑をかけ始めた時か、同世代の読者たちがリタイヤして売れ行き部数が50部を切ったときでしょうか、と高橋さんは言う。

     

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    今入重一さんは、このブログにも登場した横山光輝作品のトップコレクターだ。横山光輝クラブの会長であり、作家の強い信頼を得てその邸に出入りする間柄になっていた。

    高橋さんは、まんだらけ中野店に行ったとき、偶然今入さんと知り合いになった。そして、自分が古い漫画の復刻をやっていること、可能なら横山作品も復刻したいことを言った。
    今入さんの反応は迅速だった。
    「それなら先生に直接会っておいたほうがいいでしょう」
    そう言って横山邸に連絡をとり、高橋さんを連れて行った。
    高橋さんはそこで作家本人に会い、もとの原稿が残っていない作品なら復刻してもいいという許可を得ることができた。
    今入さんは、自分の膨大なコレクションから、復刻用の資料を高橋さんに惜しみなく提供した。
    アップルboxクリエート刊行「横山光輝名作全集」は、現在、公式の全集を補う存在として光プロダクションからも高く評価されているという。

    そして横山作品のこの復刻があったから他の先生のものも作れたと高橋さんは語る。
    「今入さんの存在は、大きいなんてもんじゃない。これがなかったら続けてくることはできなかったと思います」

     

    『なつ漫王』50号裏表紙より 復刻横山光輝作品

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    実際、儲けというのは出るのだろうか。

    高橋さんは、復刻で儲けているとずいぶん言われてきた。復刻で家を建てたと言われたこともある。
    長年付き合っている印刷所に依頼して、オフセット印刷で100部つくる。サイズはA5版、表紙はフルカラー、本文は二色の上質紙で無線綴じ。『なつ漫王』『漫画市』はほぼ200-250ページ。

    「予約してくれるファンたちに頒布し、2割を委託し、どんなに売れても大概1割は残る」と高橋さんは言う。
    「でも7割売れればそんなに大きな痛手にはなりません」

    わたしは印刷所の費用を確認し、これで毎回、本当に経費はまかなえているのだろうかと思ってしまった。
    儲けが出る出ないの話ではない。これは痛手が大きい少ないの違いではないか、とわたしは言った。

    「でもわたしは商売でやってるわけじゃないですから。他に商売があるわけですから」と高橋さんはまじめに抗弁する。
    高橋さんは古書店を経営し、店頭だけでなく目録でもヴィンテージ漫画を売っている。昨今はインターネットの普及などで古本屋の経営は厳冬だが、今はともかく、比較的余裕のある時代が長かったと高橋さんは言う。

    まずは漫画家としての自分の創作活動があった。
    「ちょっとエッチっぽいもので、名前もずばり、「ザ・エロス」」
    そう言って高橋さんは笑った。
    「それと猫耳少女の「ミーコメタモルフォセス」、そういうのが500から1000部、出すたびに何十万かにはなりました。他に、古本屋をやる前はフリーでテレビコマーシャルの絵付けの仕事をやっていて、これが月に50万~100万」

    それらがすべて復刻の資金源となった。
    「復刻で食べてゆくようなことはしないです」と高橋さんは言う。

    「誰もこちらが出血しながら続けているとは思わない。でもこれは商売じゃない。趣味なんです。趣味は楽しむためのもの、だから損して当たり前なんですよ」

    『新ミーコメタモルフォセス』

     

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    「誰もこちらが出血しながら続けているとは思わない。でもこれは商売じゃない。趣味なんです。趣味は楽しむためのもの、だから損して当たり前なんですよ」

    だが、頭を下げ、赤字を出し、常に版権の弱者としてぎりぎりのところに立ちながら、誰が趣味といって平然と血を流し続けるだろうか。損して当たり前といってそれを数十年続けるひとがいるだろうか。
    高橋さんの穏やかで醒めた態度とやっていることの激しさとには抜きがたいギャップがあったが、当の高橋さんはそのことに全く気づいていないようだった。このギャップが、損得を金銭で考えがちな世間に、やっぱり儲かっているんだろうという推測をさせるのであるかもしれなかった。

    おそらく、最初はほんとうに世間の趣味の域におさまるものだったのだろう。楽しくて、面白く、読者も喜んでくれた。
    だが長年の活動のあいだ、高橋さんの「趣味」という言葉は徐々に世間一般の用法から遠ざかり始めていったように思われる。
    それはいつのまにかもっと能動的で限定的な、或る不可侵の領域の表現として研がれていったのではなかったか。

     

    ひとりの同人誌作家だった高橋さんの転機は、オフセット印刷の到来とともにやってきた。
    同人誌の形態は、初期の肉筆回覧誌からコピー本へ、そして印刷所に発注するオフセット印刷本に変化した。自分たちの同人誌が手製のコピー本ではなくオフセット印刷のものになったとき、高橋さんはその内容のレベルが気になり始めたという。オフセットは、それまでとは格段に見栄えが良く、製作費用も段違いにかかった。

    「でも原稿にレベルのばらつきがあるわけですよ。みんなで会費を出して作っているのなら、レベルの低い原稿も載せなくちゃならない。わざわざ印刷所で作って、お金を出して買ってもらって、これでいいんだろうかと思うようになった。それで自分一人でつくるようになったんです」

    オフセット印刷の普及で、それまで一作家だった高橋さんを悩ませたのは、自分自身の内部にある一冊全体を俯瞰する目だった。形態の美しさに無関心でいられず、それを手にとる読者を内容でがっかりさせたくないという思いだった。
    生来の編集者気質といえるのだろう。作品を見分ける目があり、形が内容を要求すると感じる意識があった。

    こうして責任編集を始めた高橋さんは、同人誌界の横のつながりの中、自分の鑑識眼に合った作者を選び取り、一冊を構成することの面白さに目覚めた。
    「自分で編集すれば、自分がこの人はうまいと思った人のものを、グループを越えて引っ張ってこられる。しかもわたしは描き手ですから、その人たちに作品でお返しをすることもできるんです」

    自分がこれはと思うものを。そして読者が面白いと思うものを。
    そうして既に述べたように、読者の求めに応ずるかたちで、復刻というものがそこに入ってきた。当初それは、ページを埋める選択肢に古い作品を入れることでしかなかったようにみえる。だが長年の間、おそらく製作の困難に直面すればするほど、同人誌と復刻というふたつの事柄は、高橋さんにとって車の両輪のようなものになってきた。

    (高橋さん発行の最初の同人誌『あっぷる!ぷるる』)

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    「商業誌をつくりたいとは思いません」と高橋さんは断言する。

    「出版社が復刻をやる時もあるんです。何作か出す。でも続かない。企業だとどうしても採算を考えなくちゃならないから」
    勢いよく復刻を始め、企画を維持しきれなくなった例を高橋さんはいくつも見てきた。
    「あれ、このごろ出ないな、と思うと、消えている」

    かたや商業的にどんどん復刻を出しているところもある。だがそれは主に、確実に購買数を見込める作品だ。

    アップルboxクリエートは、名高い作品を復刻することもあったが、他なら絶対に出さないような知る人ぞ知る作品もどんどん復刻してきた。
    売れるものだけやればいいじゃないかと言われたこともあったという。だが「売れるものは、商業出版がやればいい」と高橋さんは言う。
    「商業誌はかかるお金もけた違いなんですから。こちらは、売れないものでも読みたいひとはいるから捨てられないということでやる。個人でなければできない企画をやっているんです」

    だが、個人でなくてはできない企画というのが理解されることは難しい。

    「遺族に何年も前からアプローチして、最初は了承してくれていたのに、こちらが具体的な内容を言った途端、イメージとは違うからダメと言われたことがある。また別の遺族から、印税が出ないところはOKを出せないと言われたこともあります」

    遺族は復刻といってどんなものをイメージしていたのだろう、と高橋さんは思う。この作品が商業的な出版物としてメジャーに刊行されることか。
    高橋さんはわかりましたと言う。
    そして、あとに言いたい言葉をぐっと飲み込む。
    「ここで出さなければこの作品は残らない。数十年後、おそらく、何もなくなる」

    世に出してくれるなら自分以外がやってもいいのだと高橋さんは言う。
    「むしろ、こっちが協力したいくらいです」

    (『あっぷる!ぷるる』裏表紙)

    最初はただ楽しさだけだったのだろう。
    読者の懐かしいというコメントに励まされ、復刻の喜びはもっと単純で明瞭だっただろう。
    だが長い年月のあいだ、出版をめぐるさまざまな荒波に揉まれる内、高橋さんは、復刻をなしうる条件というものに何度も何度も突き当たったのに違いない。中でも商業的な復刻の限界に対する認識は、高橋さんにとっておそらく決定的なものであったと思われる。

    同人誌で、少部数で、版権所有者に許可を求めても復刻意図を理解されぬこともあるこの道、曖昧で不安定で時には誹謗中傷にさらされるこの細道こそが現時点、高橋さんの理想の復刻に通じる最も確かな道である。

    そしてわたしは思うのだが、そのことを無意識的にも知ったとき、高橋さんは本当の意味で復刻というものに引きずり込まれたのではなかったか。
    漫画史を熟知したこの目利きは、埋もれている数々の作品の価値を知っている。趣味だから続けられると高橋さんは言うが、それは、趣味だからこそやめる理由を持たない、趣味だから続けてゆくのだという覚悟の言葉のようにも聞こえる。

     

     

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    今まで復刻した中で特にこれはというものを教えてください。
    わたしがそういうと、高橋さんが出してきたのは厚みのある二冊だった。

    春名誠一原作・東浦美津夫「どこに青い鳥」上下巻
    (『少女クラブ』1958(昭和33)年5月号~1959(昭和34)年3月号初出)

    アップルBOXクリエートは、2005年、この長編少女漫画を上下二分冊で復刻した。
    高橋さんは言う。
    「今ではあまり知られていない人です。ストーリーはよくあるものですが、当時、この絵は群を抜いている」

    東浦美津夫(1930~2012)は、1937(昭和22)年17歳でのデビュー後、作風の変遷を経ながら長期にわたって活躍した。初期の作品は冒険海洋活劇「海の狼」「腰抜け捕鯨隊」など。その後、時代物「はやぶさ頭巾」「そらまめ童子」などを少年月刊誌に発表した。そして男性漫画家の多くがそうだったように、初期の少女漫画の描き手であり、『少女』『少女クラブ』『週刊少女フレンド』などで連載を手がけた。ほかに横山光輝原作「無明幻之丞」(1966)などがある。

    「どこに青い鳥」は、意地悪なおばさんのもとで育った少女が、実の母親との幸福な生活を求める幸せさがしの物語だ。
    京都で心ならずも舞妓になるよう育てられていた少女ひづるは、自分の生みの母が東京にいることを知り、しるしのダイヤのリボンを持って逃げるように上京した。その母は、子役スターになった、ひづるの弟まさみとふたりで暮らしていたが、ひづるたちの叔父の借金のため悪者に邸を奪われそうになっていた。この窮地を救えるのは、養女に出したひづるに与えたダイヤのリボンしかない。だが母はひづるの居場所を知らず、一方ひづるは上京する電車の中で、すりの少年にリボンの入ったバッグをとられてしまう。

     

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    実の親をさがすなど、少女が幸せを求めてさまよう話はごく普遍的なパターンだが、当時はとりわけ流行のものだった。東浦美津夫は少女誌でこうした悲しい少女の話を多数えがいている。「少女クラブ」と同時期の雑誌「少女」では、「カナリヤさん」「バラ色天使」「涙のオルゴール」など、孤児となった少女の幸せさがしの物語が続く。

    「少女」は、1949年から1963年まで光文社から刊行された少女雑誌。特徴のひとつに当時一世を風靡した子役スター・松島トモ子が、1950年代のあいだほぼずっと表紙をかざったことが挙げられる。
    ちなみに1957年、東浦は、この光文社から、松島トモ子の伝記マンガ「まんが物語トモ子ちゃん」を刊行した。
    当時、「少女」編集部は、世の悲しい少女たちをとりあげた実話コーナーに力を入れ、ふろくや増刊で、松島トモ子が実際に出会った悲しい話のシリーズを展開していた。東浦の「まんが物語トモ子ちゃん」は、冒頭、戦争で父を奪われたトモ子の不幸な生い立ちを描き、そのトモ子が本当に出会った悲しいお話をつなげて構成された一冊である。

    昭和30年代初め、戦争の惨禍がまだなにがしかの実感を伴っていたあの時代、雑誌「少女」が、自分たちのシンボルとして起用した松島トモ子に求めたのは、スターであっても心に悲しみを秘め、世の少女たちと幸せさがしを共有する少女像だった。そうしてそれをマンガの面から支えたのが東浦美津夫だった。悲しく可憐な少女を描き続けた東浦の絵は、当時編集部から、時代を代表する少女・松島トモ子の肉体と心性をあらわすものとして、評価されていたようだ。
    なお、原作者・春名誠一は、この悲しい実話シリーズに参加して東浦とタッグを組んだこともある。月刊少女雑誌でマンガや絵ものがたりの原作を多数つとめ、父を事故で亡くした少女の話「母子草」が国会図書館に残っている。

     

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    この東浦美津夫が、先の春名とのコンビで講談社「少女クラブ」に舞台を変え、名前もトモ子とは別のスターを想起させるものにして、得意の悲しい少女の幸せさがしを描いたのが「どこに青い鳥」である。

    意地悪なおばさんの手から逃れ、京都から上京したひづるは、実の母と再会した。だが、ダイヤのリボンの紛失を知って母は心労で入院する。弟まさみは悪者に狙われる。叔父は監禁されている。念願のダイヤを発見して喜んだのもつかの間、弟は事故で片足が不自由になってしまう。悪者はついに逮捕されたが、直後、叔父の失火で屋敷もダイヤも全焼し、母子は貧民街のその日暮らしに転落する。弟の足を治すため、ひづるは嫌いだった舞妓になろうと京都に戻った。だが、足を悲観した弟まさみが北海道に家出するや、連れ戻すため北海道へ飛ぶ。その飛行機には時限爆弾が仕掛けられていた。

    この壮大なジェットコースターはまだまだ続き、北海道でひづるがサーカス団に加入したり、まさみがアイヌの秘宝に関わったりとめまぐるしい。ちょうどアイヌの少年少女をえがいた「コタンの口笛」が流行した頃だった。

    これは本当に悲しいお話なのか。いや違う。
    前半、不安な顔ですぐに泣いていた少女ひづるは、ダイヤをさがし、母を支え、弟を案じ、時折涙しながらも獅子奮迅の働きである。
    戻った京都では舞妓としてライバルと舞台上で火花を散らす。北海道のサーカス団でも、舞台の急場を得意の舞で救って喝采を浴び、前半の泣き濡れる舞妓時代を完全に払拭する。
    幼かった表情も徐々に大人びてゆき、無力を詫びる母親に「あたしたち、おやこじゃないの・・・幸福になれるまで みんなで力になりあっていこうと ちかったじゃないの」と言うひづるは、もはや完全に自分自身で運命を切り開いてゆく少女なのだ。

    ラスト、経済状況も弟の足も実際の問題は何ひとつ解決していないが、親子は北海道から元気に東京へ戻ってゆく。アイヌの人たちとの生活で弟も精神的に強くなった。

    「どこに青い鳥」を読んでいると、悲しい少女の幸せさがしの曲折の中、徐々にあの時代の最も良いもの、希望というものが、どうしようもなく溢れ出てくることに深く心を動かされる。
    この作品はまさしく東浦美津夫が少女漫画に残した大きな贈り物にちがいない。だがこの、奔流のように読者を巻き込む希望の物語をそのまま体感させてくれるのは、現在、アップルBOXクリエートが出版した100部の上下巻だけなのだ。

     

    高橋さんは今年69歳になる。
    「六十代になったとき、これからは何があるかわからない年齢に突入したなと思いました」

    体が動かなくなるかもしれない。自分がいつまでこれを出し続ける気力がもてるか、と考える。
    だが、出せそうだと考えてすでに資料を集め終わっている作品が、今の時点で20~30点はあるという。

    「もっと増えるかもしれません。そういうのをクリアして、もうやることたいしてないや、という状態で復刻は完結したい。自分で納得できるところまでいって、自分できりをつけられれば」
    「あとは、自分の作品、毎年新作で2本くらいは出してますので、それを完結するところまでいければ、それが同人誌の決着ですねえ」

    高橋さんの代表作「ミーコメタモルフォセス」は現在も展開中だ。男性にウケるよう描いていたものが、時間がたつにつれて本当に可愛くなってきた、と高橋さんは言う。
    作家としての高橋さんは天性のストーリーテラーである。
    「こういうのが描きたいな、というのがあって、描きたいシーンに向かってゆく。そのシーンに行けば結末まで一気に行ける。自分の考えたとおりのストーリー進行ができます」

    知識と経験と能力と、人とのつながりと、他者に対する貢献と、いうなれば自分の全てがここにある。同人誌をつくるのは生きるということそのものだろう。
    そういえば、どんな執念があってこれほど長く続けているのですかとわたしが訊いたとき、高橋さんはこう言った。
    「別に執念というほどのこともないですよ。これは空気のようなもので」
    いつもの穏やかな、淡々とした口調だった。
    「吸っていなくては死んでしまう」

     

     

     

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    今も続いているかは知らないが、かつて国文学未完資料の会というものがあった。埋もれた文献を発掘してきて翻刻し、仲間うちで配布する。
    高橋さんの復刻を知ったとき、わたしはその会のことを思い出した。漫画はこの先、埋もれているものを営々と掘り起こす人たちの対象になってゆく。

    「今は話題にもならないけれど、いつどうなるかわからないですよ。こうやって出してあれば、いずれ小さい出版社が手をつけてみようという気になるかもしれません」
    この同人誌を資料として誰かが使うでしょう、と高橋さんは言う。

    著作権は絶対に必要なものである。だが次の時代の豊かな実りが前代の遺産の活用の上にあるならば、知的財産を資料として活用できるようどれだけ整備しうるかは全く別の大きな課題であるだろう。
    版権を独占する企業がしばしば情報を封印する中、現在、同人誌の世界がその任を担っている。

     

    今回も形になった。高橋さんはほっとする。
    生みだそうとする意志を形にして、ほんのつかの間の安堵を味わう。
    いつかはきりをつけねばならない。だがもう少し、この場に居続けようと思っている。

    趣味という旗印のもと、どれほど多くの無償の労力が世界を繋いでいることだろう。
    誰もがいつかは去ってゆく。あとには巨大な山が残っている。

    < 2018年5月 >

    巴里夫( )

    福井英一

    泉ゆき雄

     

    東浦美津夫