星まこと(アニメ探究)

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    星まこと / プロフィール

    1964年福岡県生まれ。
    マンガ・アニメ探究者。
    幼少期より本やマンガ、アニメに親しむ。1977年『宇宙戦艦ヤマト』の劇場公開前後から起きた「アニメブーム」の洗礼を浴び、よりアニメに耽溺するようになる。その後、雑誌や書籍など出版物の編集を経て、会社勤めの傍ら各誌に寄稿。子どもの頃からのライフワークである、マンガやアニメの探求活動を継続中。
    マンガ家やアニメ関係者との親交も広く、個展やイベントなどの企画運営、DVD企画構成のアドバイザーやマンガ復刻企画、WEBサイトへの執筆など活動も多岐にわたる。編著に、御園まこと名義の『図説テレビアニメ全書』(原書房)。解説に『世界の子どもたちに夢を』(但馬オサム著 メディアックス)、『アニメプロデューサー鷺巣政安』(鷺巣政安・但馬オサム共著 ぶんか社)、インタビューに『小松原一男 アニメーション画集』(東急エージェンシー出版部)、マンガシナリオに『あめんぼうの詩』(金山明博著)など。2018年、1999年から『まんだらけZENBU』に連載中のインタビューをまとめた『伝説のアニメ職人(クリエーター)たち』第1巻を上梓。
    ブログ「アニメに感謝」も継続中。
    animenikansya.blog.fc2.com

     

    2018年5月、星まこと編著『伝説のアニメ職人(クリエーター)たち』(まんだらけ出版)が刊行された。アニメの作り手たちへのインタビューをまとめた一冊で、1999年からまんだらけのカタログ(「まんだらけZENBU」)に連載されているコーナーを単行本化したものである。

    今回収録された作り手たちを目次順に記す。草創期から現在の隆盛に至るジャパニーズアニメの背骨をつくってきた名前が並ぶ。もちろんこれは19年にわたるインタビューの内、ごく一部に過ぎない。

    ・大工原章:『白蛇伝』『少年猿飛佐助』『安寿と厨子王丸』『西遊記』原画
    ・森川信英:『黄金バット』動画監督、『妖怪人間ベム』作画監督、『まんが日本昔ばなし』作画。演出
    ・うしおそうじ(鷺巣富雄):『0戦はやと』『ハリスの旋風』『ドンキッコ』『ちびっこ怪獣ヤダモン』制作、ピープロ代表取締役社長
    ・石黒昇:『鉄腕アトム』原画・演出、『宇宙戦艦ヤマト』アニメーションディレクター、『超時空マクロス』監督、『メガゾーン23』原作・監督、『銀河英雄伝説』総監督
    ・荒木伸吾:『巨人の星』原画、『バビル二世』キャラクターデザイン・作画監督、『魔女っ子メグちゃん』キャラクターデザイン・作画監督、『ベルサイユのばら』キャラクターデザイン・作画監督、『聖闘士星矢』キャラクターデザイン・作画監督
    ・金山明博:『あしたのジョー』『超電磁マシーンボルテスV』『闘将ダイモス』作画監督
    ・鳥海永行:『科学忍者隊ガッチャマン』『しましまとらのしまじろう』総監督
    ・北原健雄:『新ルパン三世』キャラクターデザイン・作画監督

    星さんに話を聞きたいとお願いしたのは、ずいぶん前のことになる。そのときは、自分はマニアではないという理由で断られた。その後も粘り続けたわたしに、星さんは根負けしたらしい。『伝説のアニメ職人(クリエーター)たち』の出版に合わせてならと了承されたが、その後も星さんの、自分の執着はモノではない、何を話せばいいのかわからない、という言葉は続いた。
    コレクターもマニアも別に限定的な存在ではなく、多様な広がりを持っている。星さんの、自身を限定しようとする傾向はともかくとして、わたしは、星さんの話なら何でもいいという気持ちであった。

    思い起こせば、わたしがそこまで粘ったのは、星さんのブログ「アニメに感謝」の中で、このインタビュー本にも登場する石黒昇氏の記事を読んだことがきっかけだったように思う。石黒氏は言わずと知れた『宇宙戦艦ヤマト』の監督だが、その氏が或る日、自分の手元の資料を箱詰めで星さんに送ったというのである。石黒氏は星さんのアニメインタビューを、これは将来大変な資料になると励まし続けたという。
    日本中にアニメブームを巻き起こし、アニメの位置づけを根本的に変えた『宇宙戦艦ヤマト』。その監督が、手元のモノを託す相手、そのモノたちの持つ記憶を次代に残す相手として星さんを選んだということが、わたしの心に強い印象を残した。どうしても星さんに出てほしいという思いは、そのあたりからだったような気がするのである。

    1999年5月、アニメインタビューを始める直前、星さんは一冊の本を出版した。
    『図説テレビアニメ全書』(原書房 御園まこと名義)

    この序文で星さんは次のように書いている。
    「どのようにして「テレビアニメ」は始まったのか。日本のテレビアニメは、それまでのアニメーションの歴史とは全く関係せず、突然出て来たものなのか。なぜ『ヤマト』や『ガンダム』は若者の心を摑んだのか。アニメ作家・宮崎駿のルーツはどこにあったのか。オリジナルビデオアニメがテレビアニメにもたらしたこととは何だったのか。そして、九〇年代最高のヒット作といわれる『新世紀エヴァンゲリオン』はなぜ生まれたのか……。これらの問いには、その歴史をひもとくことで答えが出るかもしれない」
    この本は、前史といわれる東映長編アニメの時代から、テレビアニメ35年の歴史を俯瞰する。メカニックや特殊技法の変遷、作家論なども含め、すべての章が巨視的な展望のもとに配置されており、アニメ史を知る上で必読の教科書的な一冊となっている。
    まさにこの俯瞰力、総合力が星まことなのだとわたしは思うが、また一方、星さんの興味は、常にその時代を生きた人々の姿に注がれている。個々の人々やモノから大きな歴史を構成してゆくのは星さんの一貫した姿勢である。

    今回、モノを語るというこのブログの趣旨に合わせて、星さんはいろんなモノを持ってきてくれた。星さんの普段を知る人からは、あの専門家にこれほど基本的な話をさせたとはさすがド素人、と呆れられるだろうか。
    だがアニメクリエーターたちの底力を、モノに即してこれほど端的に語れる人も稀だろう。アニメと共に生きてきた星さんの語りをここにそのまま残し、ブログ読者のご高覧に供したい。お楽しみあれ。

    「何が好き?って、アニメが好き。
    作品? ありすぎて答えられないでしょう。
    タツノコの劇画調も好きだし、東映のロボットものも好きだし、ギャグ調も大好きだし、スポーツアニメも好きだし、好みはわかんないですね。

    東映の『白蛇伝』、ぼくはあの時代に生きてないかもしれないけど、パイニャン可愛いとか、あ、この表現すごいとか、『わんぱく王子の大蛇退治』、あの空中戦、大蛇がぐわああーっと、あれはでっかいスクリーンで見ないとわからない。やっぱり、ああこれ興奮するなあと思って。好きですよ、だから。
    『どうぶつ宝島』も好きだし、『長靴をはいた猫』の、最後にドクロを持って「朝日よー!」って階段のぼってくシーンとか、わくわくしますよね。
    じゃあお前のベストテンは何だと訊かれると、ぱっと答えられないんですよ。わかんない、もしかしたらぼくがいまだに成長してない子供だからかもしれない。だけど、逆にそれだけ好きなものがありすぎるから、だからこれだけ人に訊きにいけるのかもしれない。

    これ、『亜空大作戦スラングル』っていうアニメの原画です。敵のロボットにやっつけられる味方の防衛軍の兵隊の、かわいそうな末路です。ほら、パラパラやってみてください。

    これは爆発の煙の表現です。80年代、爆発シーンって急激に進化したんだけど、動画ではよくわかんないですよね。さあお立ち会い、この迫力のない鉛筆の絵が、セル画になったらどうなるか。ほら、破片が出る、火の粉が出てくる、エアブラシが飛んでるから。

    全然違うでしょう?
    これがセルの魅力なんですね。いまデジタルでこういうのはない。セルの質感みたいなのはない。これは家内制手工業、今はもう失われた仕事です。
    いいキャラのいいシーンだけじゃない。こういう素材がすごい好き。こういうの、普通のマニアは捨ててしまうようなモノかもしれないけど、ぼくにとっては大事なんです」

    「体格がいいから小学校の頃は剣道に通ってました。
    でもなにせマンガ好きで、それでアニメ。
    とにかくアニメが大好きだった。好きなキャラクターの絵が欲しかった。カッコいい絵が欲しかった。
    でも昔はアニメの絵なんて身近になかった。アニメの絵が残るなんて思わなかったですよね。雑誌に掲載されていると絵が違ったりとか。
    なんであんなに欲しかったのかなあ。すごく欲しかった。アニメの絵が。

    印刷物としてアニメが無かったから、テレビの画面を写真に撮って。
    当時唯一あったのはミニカード。あの頃のちびっこにとって、正直いって特撮以外は1ランクも2ランクも下だったんですよ。写真じゃなく絵に描いたものなんて。だからアニメの絵を集める人なんかいなかった。ミニカードの会社もそう思ってたと思うんです。
    でもぼくはアニメの絵が欲しかった。
    ミニカードは、『ゲッターロボ』とか『ガッチャマン』とか、フィルムの絵をそのまま焼いてくれたから貴重でした。ああ、画面の絵だぁ、ってすごく嬉しかったのを覚えてる。あの頃アニメの絵を手に入れるのはミニカードしかなかった。

    アニメの描き手の違いに気づいたのはいつかって?小学校五、六年の頃です。例えば『タイガーマスク』、あれ毎回絵が違いましたよね。東映は毎回作画監督変わってたんで絵が違った。
    なんで違うんだろうって最初はわからなかったんですよ。でも毎回テロップ見ている内に、あ、この人の時は好きだなあ、荒木伸吾のときは好きだ、小松原一男のときは好きだ、とか。それでテロップ見てノートをつけるようになりました。この人の絵が好きってときはメモとって。リストをつくって再放送のときは絶対にこれ見ようとか、予定を組んでました。

    九州の片田舎で、まわりはマンガなんか卒業です。自分ひとり、アニメを卒業できない。
    でも逆に、だから純粋教育で、テレビを通じて通信教育を受けていたようなものかもしれないです」

    「中2のときにアニメブームが来た。
    1977年、『宇宙戦艦ヤマト』の映画が封切られたときです。ムックが出るわ雑誌は出るわ、小川宏のモーニングショーで声優さん特集をやったりとか、世間を巻き込む形でブームになった。アニメが子供のものから、お金を払って買うティーンエイジャーのものになった。

    嬉しかったですよ。クラスのみんながアニメを見るようになった。ああ、よかった、これでおおっぴらにアニメの話ができる。

    でもクラスメートとじゃ内容が寂しい。

    当時北九州にはプロを輩出するようなマンガサークルがあって、マンガファンの土壌はあったんですね。そんな中、ひょんなことで高校生や大学生のお兄さんお姉さんたちと話す機会も出来たんです。金山さんの絵がいいとか荒木さんが好きとか、そこでは話すことができる。
    その人たちに教育されるわけですよ。ハヤカワのSFの青の背を全部読めとか。半村良読んどけとか。再放送でみると半村良が『スーパージェッター』の脚本を書いている。豊田有恒読んでると、あ、『鉄腕アトム』の脚本書いた人だとか。だんだん繋がってくる。そういうのを活発に楽しめる仲間に入れてもらえたのは、すごく恵まれていた。

    レッドツェッペリンを教えられてブリティッシュロックを聞き始めたり、ラジオもがんがん聞いていた。当時ラジオがサブカルの条件だったから見聞はどんどん広がった。高校ではR&Bに目覚めて、音楽も学生時代ハマりました」

    星さんが初めて買ったセル画

    「もともと本は好きだった。小学生で名作全集を読み尽くして、あとは江戸川乱歩とかモーリス・ルブラン、コナン・ドイルとか。
    思い出すのは、伝記ものが好きだったこと。野口英世、ファーブル、リンカーン、ワシントン、偉人の伝記が大好きだった。でもこんな人になりたいとかっていうんじゃなくて、こんな時代にこんな人生があったんだというのを知るのが楽しかった」

    高校のときノンフィクションで出逢いがあった。

    竹中労『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(1976年 白川書院)
    高平哲郎『みんな不良少年だった  ディープ・インタビュー』(1977年 白川書院)

    竹中さんのは、鞍馬天狗をやった嵐寛寿郎の話の聞き書きです。口調からなにから克明に書いている。テープを録らず、全部手書きでやったらしい。
    高平さんは「笑っていいとも」の構成作家をやった人で、赤塚不二夫とか堺正章とか当時とんがってた人たちにインタビューした、これも聞き書きの本。当時は知らない人もいっぱいいたんです。でも面白かった。ひととなりがよくわかって。みんな若い頃だからけっこうギラギラしてる部分が出てますよね。
    ああ、こういう人生の描き方があるんだ、ってこのとき気がついた。こんなノンフィクションの世界があるんだ、こんなに人間が浮き彫りになる手法があるんだ、って。これはものすごく大きかった。今思えば、ぼくのアニメインタビューのルーツはここにあるのかなあと思います。

    自分のインタビューも、出来ればこういう、しゃべり口調とか動作まで、読者が体感してくれるようなものにしたいなあ。それでこの人たちが、この中に生きている、この本をひらいてくれればいつでもこの人たちに会える、そんな感じに思ってもらえれば嬉しい。
    竹中さんも高平さんも取材対象に対する愛というかリスペクトがある。リスペクトしてるから人を書けるみたいなところがある。ぼくはものすごくそれに影響を受けている。これがぼくの教科書です」

    「大学入学で上京し、まんだらけに毎週のように通った。
    まんだらけがまだ中野ブロードウェイの3階の一店舗だけだったときのこと。何度も通って古川さんに顔を覚えられて。

    1999年、古川さんに呼び出されて、まんだらけのカタログに載せるアニメインタビューを頼まれた。ちょうど『ルパン三世』特集号で、誰がいいかなって訊かれて、みんなは宮崎さんとか大塚さんに行くでしょうけど、ぼくは新ルパンの北原健雄さんって言った。そしたら「あ、面白いねえ」って。「じゃあ、やってくれる?」って言われて、へえっ?っみたいな。ぼくはあくまでお手伝いをするって感じだったから。
    北原さん、この本の最後のほうに載ってますけど、ホントはいちばん最初のインタビューなんですよ。その意味ではぼくも初々しさがないですね。普通にしゃべってますもんね。

    評論家じゃない。意味づけはしない。原液のまま真空パックみたいにして残しておく。読んだ人が時代を飛び越えて、あ、このひとはこんな人物だったんだ、と思ってくれるような記事にしたい。その人がいなくなってもこの本によって対話ができる、それをめざしてやっています」

     

    「あのインタビュー連載で特徴的なのは、けっこう背景画家のところへ行くってことだと思います。みんなアニメといったらキャラクターに行くけど、実は背景ってものすごく大事で、要するに画面を見たとき、もうその7割8割は背景なんですよ。その背景をどういう感じにするのか、ギャグ調にするのか、リアルにするのか、色調はどうするのか。

    これ原画です、『ポールのミラクル大作戦』っていう作品の背景原画。『ナウシカ』とか『ガッチャマン』の美術監督の中村光毅さんの美術ボードです」

    「じゃあこの世界では夜はどんな雰囲気になるか?」

    「こういうふうになります。裏山に木があって、もくもくと暗雲がたちこめて、ベルト・サタンがやってきて、ニーナをさらいに来るわけですよ。こういう背景があって世界ができる。そこにアニメーターがキャラクターを載せてゆく。

    アニメの美術監督がどれだけすごいかっていうと、ふつう絵描きってのは風景を見ながら描きますね。でもこの人は頭の中に街がある。コンピュータが出来る前から三次元なんです。
    ガンダムのホワイトベースなんて、誰も知らないですよね。でも廊下がどうなってて、光がどう当たってるとか、すべて美術監督が決めてるんです。ライティングがこうだから、艦内でも暗くなってるから、こういうふうに描くとか、頭の中に360度できあがっててどの角度からみてもいい。それで歩いていけるんですよ。その艦の中を。

    監督の頭の中にある世界を、美術監督が共有して具現化する。言語化して、何百人といるスタッフに全部説明する。大変なことです。朝はこの色で、昼はこの色で、夜はこの色で、家の中はこういうふうにって。
    けっきょくぼくらが見ているアニメの、色の世界ってのは、やっぱり背景がメインなんだろうなって思う。背景画がなかったら、どんなにいい絵が動いたってダメなんです」

    「今はどうなんでしょう、コンピュータの時代だから、ちょっと描いたら画面上で角度をずらしたりとか、できるでしょ?でもあの頃はみんな手作業だった。これね、普通の絵画と違う点は、全部ピンが合ってるんです。設定のため綺麗に描かなきゃならないから、全部ピンが合っている。しっかり、リアルに描いてますよね。デジタルカメラみたい。
    これは30年くらい前の絵です。その頃から美術監督ってのはこうやってたんです。匠の技です」

     

    「金山明博さんはね、絵がむちゃくちゃうまいんですよ。
    たとえば『闘将ダイモス』やったとき、原画家が描いた絵を、『ボトムズ』の塩山さんが作監修正した。それを金山さんが総作画監督で見る。
    もとの絵も十分うまいんです。それを塩山さんが直して表情が引き締まる、これを金山さんが目だけ直した。
    ほんとに微妙な差なんです。でもね、それで若者の不安な目になる。目のここの差、これで一矢の感情が出るわけです。十代の若者の微妙な揺らいでる感じが全部出る。

    金山さんのすごさはここなんです。微妙な感情表現。ちょっとした髪の毛とか目尻とか、それだけで変わっちゃう。それを金山さん、平気でやっている。毎日何百枚も修正しなきゃならないから時間がない。ちょっとここの線だけ直す。するとどうなるか。一矢が決意の顔になる。表情が全然違う。これが作画監督の力です」

    「これは金山さんが描いた『ダイモス』のヒロイン、可憐なエリカなんですけど、目を閉じている、ああ、気を失ってるんだなってわかる。お嬢様なんだなってすごくわかる。
    『ダイモス』ってのは聖悠紀さんがデザインした、すごいおしゃれなキャラクターなんだけど、そこに金山さんが、なんていうか、なま身の体を与えた。キャラクターに乗り移ったような、色気というか生きてる絵というか。それが金山さんの絵なんです」

     

    「大工原章さんはあの当時あまり取り上げられてなかった。でもあの人がいたから今の東映動画があると思う。大きな争議などでどんどん人が抜けていったけど、大工原さんはずっと残っておられた。だからぼくはインタビューで、柱、柱、って言い続けたんです」

    「これ、大工原さんの絵です。めちゃくちゃうまいですよね。古本屋で買った『探偵王』、表紙もぼろぼろになってたけど、目次をみると「黄金バット」の永松健夫とか「エイトマン」の桑田次郎も描いてる。大工原さん、ほれぼれするような絵を描いてますよ」

    うしおそうじさんのお話でいちばん面白かったのは、やっぱり東京ムービーがなぜ出来たかっていうこと。あのインタビューが出るまでは誰も訊いていなかった。東京ムービーってのは、うしお先生が『ビッグX』の原作権をピープロでやるからといって手塚さんの許可貰って取ったのに、現場が反発してできなくなっちゃった。それで困ったTBSが慌てて作ったのが東京ムービー。で、なにしろスタッフがいなかったから、社長の藤岡さんがあちこちスカウトしまくって。虫プロのアニメーターとかもみんなバイトで描いてたみたいですね。『あしたのジョー』の監督で有名な出崎統さんは、そのとき藤岡さんと仲良くなって、縁ができたらしいんですけどね。

     

     

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    「インタビューは断ると言う方も、けっこういらっしゃいますよ。
    鳥海永行さんには手紙を書いたんです。便せんで五、六枚。鳥海さんの小説を、この作品はこうこうだ、と書いて、それで取材したいってお願いした。

    実は『ガッチャマン』の最終話だけはシナリオがないと言われてるんですよ。鳥海さんが自分で絵コンテ描いて、それがアフレコ台本になったと言われてる。
    リアルな世界をやらせたら一番だって思ったから、吉田さんは鳥海さんを『ガッチャマン』の監督に抜擢したんですよね。それをセンスよくリアルに描ける宮本貞雄さんや中村光毅さんとか、大河原邦男さんとか、全てが揃ったのが『ガッチャマン』だった。

    『ガッチャマン』は鳥海さんじゃなければできなかった。あの最終回も、吉田さんにそこまで任されていたからこそできた。それを鳥海さんに聞きたかったんだけど、受け付けてもらえなかったんです。
    海外合作『ピエールくん歴史を行く』がターニングポイントじゃないですか?って言ったら、そうなんだよ、って言ってくれましたけどね。『ガッチャマン』自体は話してもらえなかった。

    僕のインタビューはいつも、もとの分量からすると四分の一か五分の一になっているんですよ。でも話した内容はほとんど入っている。極力開示していきたいし、出来ないにしてもギリギリすれすれくらいまでは、なんとか許してもらいたいなあと思って。
    だから『ガッチャマン』、聞けなかったというのもリアルに書いてるんです。鳥海さんは、あなたは知ってるんだからいいでしょ、みたいな感じで。ああっ、そこを聞きたいのに、って思ったんですけどね」

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    「荒木伸吾さんといえば止め絵とか美形キャラとか言われてますよね。
    たとえば『巨人の星』の星飛雄馬。普通の人が描いた飛雄馬の絵はこれ。これもうまいんですよ。でも荒木さんが描くとどうなるか?・・・全然違う。
    前のだって十分うまいんですよ。でも荒木さんが描くとこうなっちゃう。荒木さんも自分でわかってない。どうしてなんでしょうね、こうなっちゃうんですよ、としか言わないんですよ」

    「荒木さんはこういうすごい迫力ある絵を描くけれど、ぼくはそれ以上に何かこの人の絵には詩情がある、リリカルなものがあるとずっと思っていた。なんでだろう、と思ってたとき、昔の『アニメージュ』で特集があって、かつて荒木さんが劇画を描いてたっていうのがわかった。それですごく探したんです」

    「劇画っていうと今のマンガファンは、ギャングだとかハードボイルドだとか思ってるかもしれないけど違うんですよ。こういう世界もある。リリカルで、コマ運びが石ノ森章太郎の「ジュン」みたいなんです。
    十代の若者たち、手塚治虫をめざしてたような人たちが、漫画雑誌に描けなくて、こっちだったらデビューできると思って劇画に来たっていうのもあったんですね。
    荒木さんは小さい頃に戦争でお父様を亡くされて、中学を出た頃から、ちょっと間違えたら指をなくすようなハードな鉄工所の現場で働いて、でも夜中になると徹夜で漫画の原稿を描いてた。世の中の矛盾とか冷たさとか全部わかった上で描いていた。そういうのが全部にじみ出て昇華されたものが、荒木さんのあの絵だった。それをぼくらも画面から感じとっていた。

    荒木さんは、昔の劇画をぼくが持って行ったからすごく喜んで、これ読んでどう感じた?みたいに言ってくれて。あのころ聞けなかった感想を聞けて嬉しいみたいに言ってくださった。
    ぼくがそこで思ったのは、ああ、荒木伸吾ってのは表現者なんだな、一流のクリエーターなんだな、って。それを受け取っていたからぼくたちは感動したんだなって改めてわかったんです」

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    「たとえばテレビの特撮は、映画が斜陽になって、食いつめた映画マンたちがみんなで作ったって経緯がある。アニメも同じで、紙芝居が駄目になったから来たとか、赤本マンガが駄目になったからとか、劇画も斜陽になってきたからとか、絵が描けるというそれだけの思いでアニメの世界に入った人たちがいっぱいいる。批判もあるけど、アニメーターというものをひとつの職業にした手塚さんの功績は大きい。
    ぼくが惹かれるのは、このアニメーターの人たちが、毎日毎日絵を描いて、それこそ鉛筆一本で奥さんと子供を養って、子供を大学に入れたりした。ちゃんと生活者として生計を立てながら作品をつくってきた、そういう人たちに、ものすごくリスペクトがある。

    一昔前、記者が取材対象者に話を聞きに行くときは、大宅壮一文庫に行ってその相手の記事をひととおり調べてから行くのが基本だった。でもこの人たち、そういう記録がありますか?無いですね。手がかりはというとその人の作品歴しかない。

    作品歴は心の中に入っている。感動とかその当時受けた印象とか、そこに仕事で得たスキルも加わるんだけど、とにかくそういうファン目線で聞きに行く。まあかなりこじらしてますけど。
    それで、自分が受け取ってきたものが本当にそうなのか、それを訊くんです。その人が作ってるものがぼくらのところに、フィルムやブラウン管を通して、薄められて、来ている。でもその中に本質となっているものがあるはずだ。その本質が何なのかということに興味がある。実際に会って、ぼくが受け取ったのはこうです、とお話しする。そうですね、それで違ってると言われたことは一度もないです」

     

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    「あの当時の子供はみんな思ってましたよね。『妖怪人間ベム』や『黄金バット』の、なんともえたいのしれないあの雰囲気は何なんだろうって。
    そう、たとえば『ゲゲゲの鬼太郎』は妖怪モノだけど明るい。でも『ベム』や『黄金バット』は、無国籍感がさらに凝縮されてるっていうか。灰色の空、日の当たらない洋館の雰囲気。青空なのにくすんでる感じがした。

    森川信英さんは十代の頃にお父様を亡くされて、独学で学ばれてアニメーターをやってらした方なんですけど、当時コピーがまだものすごく高価な時代、ご自分でこういう教則本を作ったんです」

    「そうしてひとり韓国に行って、これでアニメを指導したんですね。口の動かし方、タイムシートの描き方、黄金バットが戦うところ、セルのカラーチャートも自分でつくって、それを配ってアニメの作り方を一から指導した。独学で、全部自分で資料を集めて、何もないところから韓国でこういうことをやってた。
    ぼくが『妖怪人間ベム』っていう作品にハマったのは、なんかこれ不思議な世界だなあと思ったからなんですけど、森川さんの話を聞いて、そうか、あの雰囲気は、韓国だったのかって。いくら日本で美術ボードを描いてもああなっちゃう。それは森川さんが向こうにひとりで行って、ああやって現地のスタッフと作ってたからなんだってわかった」

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    「これは、このアニメインタビューの一人目、北原健雄さんが描いた『ルパン三世』です。
    北原さんはどんな絵でも描ける人なんですけど、ルパンはホントに絵が変わっていったでしょう。
    最初はね、こんな絵を描いてたんですよ」

    「東京ムービーの分裂問題があって、Aプロダクションが移って、北原さんしかいなくなっちゃったそうです。北原さんは、『ルパン』をやりたかったから嬉しいって言って作画監督をやったんですね。最初はやっぱりどこかぎこちないんですよ。だんだん描き慣れてくると、こんなルパンになったんです。カッコいいですよね」

    「絵っていうのは変わってゆく。何回も描いてゆく内にやっぱり変わる。モノっていうのは、そういうもの。その人の人生の中に組み込まれる。
    ぼくはコレクターじゃない。コンプリートという感覚はない。その人の生き方の航跡をさぐる、そういう糸口としてモノを探している。モノを通じて、明確に、作った人に行きたい。モノは、より深くその人を知るため、その人と対話をするための糸口なんです。

    今でこそまんだらけがあって、ネットでもデータがあって、いろいろ発掘されてるけど、昔はわからないですもんね、その人が何を描いてるのか、とか。

    1977年、月刊『OUT』の増刊『ランデヴー』の創刊号は、タツノコ特集だったんですよ。ぼくは前からタツノコ作品が好きで、でも資料がないないと言ってたところに初めてカラーのムック本が出た。吉田竜夫の絵が載っていて、これが素晴らしかった。その頃普通の本屋では吉田さんの新書は流通してなかったから、古本屋で探したんです。いい絵ですよね。梁川剛一とか挿絵画家の絵も知ってたけど、全然ひけをとらない。すごいじゃないかと思った」

    「『ランデヴー』には吉田さんが絵物語を描いてたというのも出ていて、これも探した。これ、吉田さんの絵物語です」

    「この人の絵にはどこか哀愁というか、品の良さがある。下卑たところがない。これ、吉田さんの良さがいちばん現れてると思います。児童文学です。これが吉田さんなんです。
    ホントにこの人はすごいなあ。当時アメリカに行ったこともないはずなのに、和テイストでなく描いている。資料もないのに本当にうまい。止まってるのに動いている。ほら、映画みたいでしょう?絵を動かしたいという思いは、その頃からお持ちだったのかもしれないですね。
    いま、ぼくは『まんだらけZENBU』のコラム「もっとマンガを知りたい!」の中で「『科学忍者隊ガッチャマン』という奇跡」ってのを連載しています。吉田竜夫があの時代何を考えてやっていたのかを追ってるんです。あれは自分でやってて面白いというか、ああ、吉田さんはこういうことを考えてやってたのか、というのがだんだんわかってくる。そういう、自分が影響受けた作品の人というのを、もう会えないけどこうやって当たっていけるってのは、勉強になりますよね」

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    「これ、石黒昇さんが描かれたソノラマ文庫『キャプテン・シャーク』シリーズの表紙ボツ原画です。実はこんな絵も描ける、本当にすごい人だったんですよ」

    「石黒さんは、あのつげ義春さんたちと一緒にマンガを描いていたんです。そういうのを捨ててアニメに行った。すごいなあと思います。
    それがアニメの魅力?でも茨の道ですよね。小説は自分で書ける。マンガも自分で描ける。でもアニメは共同作業、絶対いろんな人の意思が入ってくる。プロデューサーとかスポンサーとか、総監督にも原作者にもテレビ局にも気を使う。おかみのチェックは厳しいし。全部の意思を総合して、その中で自分をどこまで出せるかっていうせめぎあいがある。

    石黒さんは抑制の利いた江戸っ子で、自分はあれやったこれやったって絶対に言わない。でも今、大家になってる人たちが若手の頃みんなあの人のスタッフになっている。なぜこの人たちがここまで化けると見抜いたのか、すごく興味があった。
    石黒さんは終始一貫して、かれらは勝手に育っていったんだ、って言う。だけど話を聞くと、『ヤマト』のときに爆発シーン、自分で絵の具をこうやって、セルに指で塗ってみたりしてる。『エヴァ』や『彼氏彼女の事情』で庵野さんが実験アニメみたいな表現をやったけど、そういうことを石黒さんが率先してやっていた。それを若いスタッフたちにも自由にやらせてたってのが見えてくる。

    出崎さんとか富野さんとかが大家になって、自分の好きなものをやっている。でも石黒さん、あなたはやらない。どうしてですか、と訊いた。考えてみたらリーダーアルバムがないんじゃないですか、って。
    そしたら、ジャズでアドリブを利かせるくらいが好き、っていう言葉が来た。あそこは良いお答えをいただいたと思います。音楽をやってらした石黒さんに、あの質問はぼくが音楽を少しかじってたから言えた。すべての経験が役立って、このためにやっていたのかというような気もしました。

    ぼくが石黒さんのスラップスティックを見たいと言った理由ですか?
    もともと、石黒さんがなぜ虫プロに入らないで『怪盗プライド』をやってるテレビ動画に入ったかっていう疑問があって。『怪盗プライド』ってのは、海外物みたいな楽しいアニメなんですよ。だから石黒さんは、なんかこう、のほほんとした、気の抜けたようなギャグマンガみたいなのがやりたかったんだろうな、っていうのがあった。ぼくもそういうのは大好きだったから。石黒さんも、ああ、やりたいですねえ、っておっしゃって。そこも、話が合いましたね、みたいな感じでした」

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    「音楽も好き、本も好き、ノンフィクションにもはまった、プロレスも好き、ミーハーなんですよ。星まことがミーハーでなくなったら星まことじゃない。
    今ホントに、なんていうのかな、ようやくあちこちでやってきたことが無駄じゃなかったって感じになってきたのかな、どうだろう。

    絵には人生が出る。にじみ出る。
    アニメは集団の作品だけど、それでもその集団作業を突き抜けて出てくるものがある。それを九州の片田舎で感じ取っていた。テレビの画面を通して通信教育を受けているみたいに。
    絵を通し、モノを通して、明確に人物をめざす。そうしてその人の歩んだ航跡を真空パックのように残しておきたい。

    好きな言葉があるんですよ。城山三郎の本のタイトルにある、「粗にして野だが卑ではない」という言葉です。どんなに貧しくてもどんなに賤しくても、品位を失っては駄目だと思う。ぼくは粗にして野かもしれないけれど卑ではありたくない。それは常に思っています。
    けっきょくそう望むような人が好きなんです。そういう方たちに、会いに行っているんです」

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    ここで星さんの語りは終わる。あとはこのインタビュー本『伝説のアニメ職人(クリエーター)たち』をお読みいただきたい。
    自分は何者なのかという問いは、星さんにとって大きな意味をもっているように見受けられる。
    探究者だ、と星さんは名乗る。これはあまり一般的な表現ではない。普通は研究者という言い方になるのではないか。
    星さんの名乗りには、自分の立ち位置は「研究者」のような第三者的なものではない、自分はただ、少年時代の憧れの世界をより深く知りたい、突き詰めたいだけなのだという思いがにじんでいるようだ。
    だから評論家でもない。かつて自分を揺さぶったものが何だったかを正確に知ることは、そこに意味をつける行為とは別だと星さんは考える。そして語るときは、映画解説の淀川長治や小森のおばちゃまのように、どんな作品でもその魅力を語りたい。
    自恃と潔癖の入り混じるその自己限定は、一方で、対象との距離や方法論に対する星さんの自覚の圧倒的な強さを示すものでもある。

    冒頭で述べたとおり、1999年、『図説テレビアニメ全書』で、早くもテレビアニメ史を俯瞰する教科書のような一冊を手掛けた星さんだったが、それからほぼ二十年経った現在、歴史とそこに生きた人々をさぐる星さんの仕事は、いよいよ余人の追随を許さぬ領域に入ってきているようだ。
    だが、今さら言うまでのこともない。これらすべてはあの、若者の可能性を見抜く不思議な力をもっていたひと、『宇宙戦艦ヤマト』の監督が、すでに見抜き、予見していたことであろうから。

     

    (2018年

    <了>