今入重一 / プロフィール

今入重一

プロフィール

1953年京都府に生まれる。日立執機工具などを経て1984年まんだらけに入社。
1986年、江口健一氏、堀井義信氏と横山光輝クラブを立ち上げ、会誌「オックス」を発行する。その膨大なコレクションから、別冊太陽「横山光輝マンガ大全」(1998)ほか数々の刊行物に資料を提供。復刻事業にも尽力し、横山作品の普及と基礎文献作成に大きく貢献する。
横山光輝生誕80周年には記念誌「MY Forevermore」(2014 由比敬介編集)を発行。現在、横山光輝ファンの中心的存在としてファンの集いを開催し、それぞれのファンの活動に光を当て続けている。


横山光輝
(1934-2004)

「鉄人28号」
「伊賀の影丸」「仮面の忍者赤影」「魔法使いサリー」
「三国志」「水滸伝」 ほか多数。



「鉄人28号」



 デビュー作「音無しの剣」



「伊賀の影丸」

今入重一/ 横山光輝作品 ①

2017年10月中旬、雨の降る土曜日、埼玉・戸田公園で、今入重一さん主催による横山光輝ファンの集まりが催された。 

今回のテーマは「伊賀の影丸」。

会場に入ると、正面のスライドではすでに影丸の人形劇の映像が流れ、壁側には影丸関連の貴重な今入コレクションがぎっしり並んでいた。今入さんは影丸をプリントしたTシャツを着て、忙しく立ち働いている。 

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3年前の横山生誕80周年から年1回開かれているというこの会に、今回は二十数名が集まった。関東近郊はもちろん、静岡、奈良、福岡、金沢など全国からの参加だった。それぞれの今入さんとの関係も、同人誌オックスから、ドルフィンから、ホームページやツイッターを介して、職場まんだらけを通じて、とさまざまである。アップルBOXクリエート、復刊ドットコムなど名だたる復刻の刊行者たちも顔を見せている。

 
影丸はじめこれまでの忍者物アニメや映画の映像がスライド上映され、参加メンバーによる「土鬼模様」(横山作品「闇の土鬼」より)の研究発表、あたためている横山歴史物の企画話、横山作品の総ページ数をかぞえた初出リストの配布などが挟まれた。参加者の自己紹介の中にもこの先の復刻の話題あり、初出発見の話題あり。
わたしはじっと座って聞いていた。
 

これはいったい何なのだろう。

初めてこの会を目の当たりにしたが、これは好事家の集まりというよりほとんど学会に近い。  
この中心にいる今入さんという人は何者なのか。
瞠目としかいいようのない感情があった。

聞くところによると、今入さんは小5のとき「伊賀の影丸」を第6部から読み始めた。いつのまにか影丸は無意識にまで浸透し、やがて世界すべてが影丸で溢れた。横山光輝という名を意識したのはもっと後になってからだったが、記憶をさかのぼって正解を掘り起こすように、それはそのまま自分の軸の確認となった。

手塚でもなく石ノ森でもなく横山光輝に憑かれる生き方はそんなふうに始まった。そしてわたしは、雨の降る10月のあの日、その流れの行き着いた豊かな広がりを見たのだった。


 
  
(全15回  下へつづく)

今入重一 / 横山光輝作品 ②

今入さんは、1953年(昭和28年)京都に生まれた。

終戦後お父さんとお母さんは中国残留の生活でやっと帰国できたのがもう余程経った頃だったが、今入さんが生まれて1年くらいでお母さんはお父さんと離れ、今入さんを連れて長崎・佐世保に移り住んだ。佐世保の崎戸島という炭鉱の島で、お母さんは住み込みで働き、今入さんは、おじいちゃんおばあちゃん、お母さんの弟のおじさんと四人で暮らした。小2の夏炭鉱が閉山し、一家はお母さんのお姉さんの嫁ぎ先である埼玉に引っ越した。そうして今入さんは桶川のおばさんの家に預けられた。

おばさんの家には、今入さんと同い年の男の子、2歳上の男の子がいて三人で兄弟のように過ごした。
「一日10円のおこづかいを貰って、駄菓子屋さんで5円のお菓子を二つ買う、そういうのがくるくるまわってる。マンガの意識はほとんどなかった。せいぜい床屋さんの待ち時間で見るくらいだった」 

だが小学校5年生のときおばさんの家から出て、今度は上尾にいるおじさんに預けられることとなった。

「まあそれは前から決まってたのかもしれない」と今入さんは言う。仲の良かった男の子たちと別れ、今入さんは急にひとりっ子みたいになってしまった。

だが他の変化もあった。

「おこづかいが1ヶ月500円になったんです。月の十何日に渡されて、その500円で1ヶ月、自分でやる。今まで1日10円でやっていたのが、月に200円増えた。この200円で何をしようか。マンガを読もうかな、と思った」

別にこれといったものがあったわけではない。時代劇が好きだったからそういうものがありそうな雑誌がいいと思った。その雑誌、週刊少年サンデーは当時50円。1ヶ月4週で200円だった。
ちょうど12月、本屋の店頭には新年号が積まれる時期だった。横山光輝「伊賀の影丸」第6部「地獄谷金山の巻」は、週刊少年サンデー1965年1月1日号から始まった。


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今入重一/ 横山光輝作品 ③

「伊賀の影丸」は1961年~1966年、週刊少年サンデーに第9部まで連載された横山光輝の忍者マンガである。
 主人公の影丸は徳川幕府に仕える伊賀忍者の一員で、頭領・服部半蔵の指令のもと、甲賀忍者などと激しい攻防を繰り広げる。
 基本的に集団同士の対戦スタイルで、個々の忍者がそれぞれ独自の技で競い合う。勝負に負ければ敵も味方もがんがん死ぬ。展開も画面の動きもスピーディでとにかくテンポがいい。

  
 当時、1960年代初頭、戦後の赤本ブームから50年代の貸本漫画や月刊誌を経て週刊誌の時代が始まっていた。1959年、「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」創刊。1961年、週刊「少年キング」創刊。横山はこの「伊賀の影丸」で、早くも少年週刊誌という新しい器を自在にあやつっているようにみえる。

「ヨコヤマ先生ばんばん殺しちゃいますから」

 今入さんは嬉しそうに言う。

「一応殺し合いなんだけどさらさら流してる。1、2部のキャラ、ほぼ死んでますから」

「影丸って無敵でもないんですよ。怪我もするし。対戦相手によってどう変わるか、誰が生き残るのか。影丸が生き残るのは子供でもわかってるんですけど」

 影丸は利発で敏捷で有能だが、誰が見ても少年だ。しかも相手には殺しても殺しても生き返るすさまじい忍者・邪鬼がいたのだ!

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今入重一 / 横山光輝作品 ④

横山光輝は後年こう語っている。

 
「昔は、忍者といえば巻物を口にくわえ、ドロドロと姿を消したり、大蛇を出したり、ガマになったりしたものでした。しかし、それではなんとなくおもしろくなかったので、煙は火薬玉を投げつける、速く動く、武器は新しいものを考える、そしてスピード感を出す・・・そういう新しい一つの忍者の形を造りました。この作品(「魔剣烈剣」)がもとになり、その後「伊賀の影丸」という作品につながっていくわけです」(「魔剣烈剣のころ」)

 
 大正時代、忍者ブームをつくった立川文庫の講談調は、「ドロドロと姿を消したり」のタイプだった。
1958年「甲賀忍法帖」に始まる忍法帖シリーズを発表した山田風太郎は、特殊能力としての「忍法」の対戦を書き、1950年代末~60年代半ばの忍者ブームの大きな原動力となった。
 山田忍法帖はいまの少年マンガが用いる「能力バトル」というジャンルの原点とも言われるが、「火薬玉を投げつける、速く動く、武器は新しいものを考える、そしてスピード感を出す」といった新しい描き方と併せて、いち早くこれを少年マンガの筆法に落とし込んだのは横山光輝だった。
 ひたすらワクワクする対戦忍者もの・・・・人気は回を追って加速度的に上がり、「伊賀の影丸」は初期サンデーの大看板のひとつとなった。


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑤

今入さんは「週刊少年サンデー」1965年1月1日号、「伊賀の影丸」第6部「地獄谷金山の巻」から読み始めた。
折しも「別冊少年サンデー」で、第1部からの影丸の総集編が特集された。130円で高くて買えず貸本屋で借りて今入さんは読んだ。
そして文字どおり、取り憑かれた。

「影丸がゴーッと入ってくる。見たことない影丸がわたしの中にゴーッと入ってきた」

 

それと同時に目の前をいろんな影丸が動き始めた。夢の中にも現われた。

「他の人も言うんですけど、絵が動いている。動くんですよ、さっさっさっ、て。アニメのように」

 

塀を越える、屋根にのぼる、木から木へ敏捷に飛び移る、背後に無数の木の葉が舞う。
 
今入さんは夢うつつのように影丸と一緒に生きた。


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑥

あとになって今入さんは、子供時代の自分が何の気なしにノートに描いていた影丸のスケッチを発見してびっくりした。

 

自分は第6部から読み始めたのに、その自分が「かげまる」と記して、見たことないはずの第4部の絵を描いていた。総集編の写しではなく、話の前後を知らないゆえの勘違いが入っている。
伊賀者に化けて欺こうとする敵がおり、火傷をして醜い顔になった伊賀忍者がいる。自分は話の流れを知らなくて、その醜い顔の人をどうみても敵だと思っている。こっちが悪役だ、と思ってノートに描いている。そして伊賀者のふりをした敵のほうを「味方」と書いている。

おそらく桶川のおばさんちにいる時期に床屋さんで見たのだ、と今入さんは思う。床屋さんにあった雑誌を、前の部分がわからぬまま読み、ノートに描き写していた。すてきなマンガだと思ったのだろう。


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そういえばこんなこともあった。

テレビで影丸の人形劇を見た記憶があり、自分は影丸が好きだからそれを見たと思っていた。だが調べたら、その放映は自分がまだサンデーを買う前の桶川時代に始まっていた。第1部の記憶は鮮明だが第2部はあまり覚えていない。おじさんの家に移り環境が変わったので終わりのほうは見ていないのだ。

自分は以前から影丸に触れていた。
今入さんは思う。
「もしかしたら自分はずっと影丸が好きだったのかもしれない」


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑦

もしかしたら自分はこれが好きなのかもしれない、好きだったのかもしれない。そういう言い方を今入さんは時々する。

 

今入さんは次第に横山光輝という作家を意識するようになっていった。
中学生になるとお小遣いが1000円にアップし、月刊誌などを買う余裕もできた。いろいろ読むうち、面白いと感じた作品が見ると横山作品だったという経験が何度かあり、自分は横山光輝というマンガ家が好きなのかもしれないと思い始めた。 


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17歳のとき、今入さんは上尾のおじさんの家を出た。
小5から買いためた週刊少年サンデーは相当な量になっていた。新書などは持っていけたが、週刊誌は持ってゆけなかった。

 

「一応は捨てないでねとは言ったけど」

だが綺麗に捨てられた。

「仕方ない。何年分か、けっこうな量で場所もとるし。おじさんちは子供さんもできて、それもあって出ることになったんですが、当時ああいうモノはただ邪魔だ、ゴミだ、という感じだったですから」

親にお宝を捨てられたのをきっかけに蒐集にのめりこんだマニアは多い。今入さんの場合も、この喪失がその後の蒐集の原動力になったことは疑いないが、その口から自分の所有物を捨てられた怒りや恨みは出てこない。
モノの所有、そしてそれを置いておく空間の権利の所有。おそらく当時の今入さんにとって、それらはあまり自明なことではなかった。
今入さんは人がどこで古本マンガというものを買うのかも知らなかった。新書はそこそこ持っていたが、なくしたマンガを取り戻そうとしたとき一体どこへ行けばいいのかわからなかった。
ひとつだけ確かだったことがある。それは、この先自分は働いて自分の力でお給料を貰ってゆくということだった。

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今入重一/ 横山光輝作品 ⑧

記憶に残る大きな買物をしたのは、確か19歳か20歳の頃、名古屋で漫博のような集まりがあり、親戚の子たちと遊びに行ったときのことだ。今入さんはそこで横山の「夜光島魔人」を8000円で買った。
高度成長の右肩上がり時代だったとはいえ、大卒の初任給が3万程度の頃だった。親戚の子たちが、ええっといって驚いた。


 
その頃、世間は安田講堂やあさま山荘で揺れていた。安保闘争、学園紛争の高まりの中、当時の人気マンガは権力への反逆や高度経済成長に取り残された人々を描き、学生たちは「マガジン」をかかえてバリケードの中で読んだという。 
同じ忍者マンガでも、白土三平の「忍者武芸帳」「カムイ伝」は反体制の学生たちの旗印となって「全学連のバイブル」と称された。 
横山光輝のマンガには、そのような反体制的な思想、怨念や情念のようなものは見られない。影丸たちは徳川幕府に仕え、体制維持のため死力を尽くす。そしてしばしば「幕府のイヌ!」と罵られる。影丸は個としての悩みをもたない。アイデンティティの疑いは描かれない。横山光輝の世界はそれとは異なるところに広がっていた。

たとえば1970年、よど号のメンバーが「われわれはあしたのジョーである」といって飛び立った年、今入さんは17歳で、上尾のおじさんの家に置いてあったサンデーを捨てられ、どうしようかと考えていた。
それはあの時代の歴史の表舞台と違う、まったく別の出発だった。


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑨

今入さんは「漫画の手帖」というミニコミ誌を情報源に、喇嘛舎、憂都離夜、中野書店といった古本マンガを扱う店にかようようになっていた。
二十代後半、この「漫画の手帖」を介して、その後の今入さんの運命を動かす大きな出来事が起きる。江口健一さんと堀井義信さんという横山光輝ファンとの出会いだった。

ふたりに探求リストを見せてもらい、今入さんはその充実ぶりにびっくりした。自分の知らない作品がたくさん載っている。学年誌なども網羅してある。すごい人たちがいるものだと大いに刺激された。 

    

「このふたりがわたしをマニアにした」と今入さんは言う。
はた目からはもう十分マニアな今入さんだったが、本人が「マニアになった」と言う節目はふたつあり、そのひとつがこの人たちとの出会いだった。そしてそれから少し遅れた頃、もうひとつの出会いがやってきた。


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑩

ある日、今入さんは喇嘛舎ですごいものを見つけてしまった。
横山光輝の「地獄の犬」だった。


今入さんは迷った。
「何を迷ったかって、3万円なんですよ」
 

それまでいろいろ買ってきた今入さんだったが、3万という金額は想像の外にあった。内容自体に特別惹かれたわけではない。1957年「少年クラブ」の付録で発表された「夜光る犬」がタイトルを変えて貸本用に単行本化されたもので、肝心なのはB6判というその形だった。 
今入さんは、横山の貸本向け単行本はA5判のものしか持っていなかった。B6判貸本は初期作品で格上だった。

今入さんは悩んだ。

「見せられて、即答できなくて、店のおもてに出ては中に入り、それを何回かやったと思います。いろんなことを考えた。これを逃したら?とか、だけど3万だぞとか」

20万だったら諦めた。だが3万は高いといっても現実味があった。
悩んで悩んで、今入さんはついにそれを買った。

「あれがわたしをマニアにしたきっかけです。迷って、一歩踏み込んだ。悩んだ末、足をそこに入れた」

初期作品の判型に憧れ、悩み抜いて大金を使った。全力で形の違いに踏み込んだ。

 
「買ったあと顔がにやけてたと思います。周りの人がどう思ったか」

「顔が戻せない。やっと手に入れて、顔がゆるんじゃってもとに戻せない」
 

自分が影丸にいつから惹かれたかはわからない。だがマニアになった日のことははっきり覚えている。さんざん悩んだ末に大金をはたき、その世界へ足を踏み入れた。しかも買った後、毫も後悔しなかった。

今入重一/ 横山光輝作品 ⑪

さて「地獄の犬」で異界に踏み込んでしまった今入さんは、ひたすら横山作品を買い続けていた。

「3万という大台を越えてしまったら」と今入さんは言う。

「次が5万だろうが6万だろうが、そこを越すと大体同じになってくるんですよ」

さらに言う。

「もう出しちゃった、そしたら6万だろうが8万だろうが、ガンガンお構いなしになってきて、感覚が麻痺してくるんです」

5万だろうが6万だろうががいきなり6万8万に飛ぶあたり、完全にしびれがまわっている。

失った週刊少年サンデーも、百貨店の古書店で影丸が載る少し前の号から2年分ほどセットで出ていたのを買い戻した。
憂都離夜の常連からまんだらけに入社すると、だんだん持っているもののほうが多くなる。まんだらけにはおもちゃも売りにくる人がいて、そっちにも興味が沸き、下北沢などに買いに行くようになった。雑誌の付録の豆本とか他のグッズもどんどん集めた。最終的に鉄人28号の原画60万円が一点につき今入さんの支払った最高額だという。

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今入重一/ 横山光輝作品 ⑫

1986年、江口さんや堀井さんと一緒に、今入さんは横山光輝クラブを立ち上げ、同人誌「オックス」の発行を始めた。


 江口さんのリストは、1981年、川崎健夫さんとの共同作業による「横山光輝初期作品集」別冊解説として発表された。
 また堀井さんの探求リストは、1992年「横山光輝の世界」に結実し、翌1993年、まんが資料センターの山本やすひこ氏は、これを原形として図版や新出資料を入れ込んだ「横山光輝の軌跡<作品リスト>」を出版した。この内容をカラー化した「別冊太陽 横山光輝マンガ大全」があとに続く。図版の多くは、今入さんのコレクションから出たという。
 探求リストを源にした一連の活動によって、横山作品の全体像を把握する土台がつくられていった。


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 またそれとは別に、関西で横山光輝ファンクラブという活動があり、同人誌「DOLPHIN」を出していた。今入さんは3号からそこに参加し、1982年、自らの企画で影丸特集号をつくる折インタビューのため初めて横山光輝と対面した。 

 その後、今入さんは時折横山邸を訪れることになる。そうして横山ファンによる活動と作者横山光輝とをつなぐ役割を果たし始める。


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今入重一 / 横山光輝作品 ⑬

高橋誓氏によるアップルBOXクリエートは、特に昭和30~40年代の漫画作品の精力的な復刻で知られ、その分野の大御所的存在となっている。ここで復刻された横山作品の充実ぶりには目を見張るものがある。
「横山光輝名作集」全51巻及び別冊5巻。

まんだらけマニア館の国澤氏は、今入さんをインタビューして次のように述べている。
「横山先生自身が全集の発行は固辞されていたということは広く知られていますが、クラスの作家の商業出版の補完的意味を持つ作品群をシリーズ化して自費出版で発行したというのは日本のマンガ出版史上で見ても希有なケースです」(2017年資料性博覧会パンフレット)

 
このアップルBOXクリエートと横山光輝との繋ぎ役を果たしたのが今入さんだった。先のインタビューでの今入さんの言葉を引用しよう。 

「今でこそ未単行本化作品が出版される時代になりましたが、あの当時は先生もそういった作品を本にはしないという考えだったようです。復刻の了承がいただけるのは原稿の存在しない作品という条件付きです。さらに○○と××と□□は駄目ですよと最初に釘をさされたのはありますけどね」

「印刷と編集にかかる費用は2017年現在よりも遙かに高額で大変でしたが、結果的に横山光輝名作集が復刻活動の柱になったおかげで、アップルBOXクリエートが様々な作家の復刻へと乗り出していく原動力にもなっていったはずです」
 

このシリーズは、光プロ(横山光輝プロダクション)未所持の作も含んでおり、横山作品の抜けや漏れを埋めるものとしてプロダクション側からも高く評価されているという。
長きにわたり多産であった巨大な作家の全容をつかむのは難しい。復刻は、作品の普及と同時に、今後の横山研究の理想的な環境を生み出す基礎的文献の整備でもある。
今入さんは自分のコレクションから復刻用の原稿を提供するかたわら、マンガ家本人との間に入り、その仲立ちをしつづけた。

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今入重一/ 横山光輝作品 ⑭

横山光輝作品で一番最初に何をあげるか。
鉄人28号を好きな人がいる。三国志をあげる人もいる。バビル2世を好きな人もいる。魔法使いサリーから入った人もいる。
巨大ロボ、対戦もの、魔法少女、SF、歴史もの。
横山光輝が作ったものは、個々の作品であると同時にしばしばそのジャンルそのものだった。横山は今わたしたちが自然に用いているエンタテインメントの骨法を残して去っていった。 

横山の死後、その書斎には「何かあったら今入さんに訊くように」との書き付けがあったという。

今入さんは光プロとファンの活動をつなぎ、アップルBOXシリーズのあの山脈のような作品集刊行を支え続けた。復刊ドットコムの復刻をサポートし、横山光輝生誕80周年では出版イベントを成功させた。
現在、横山光輝「闇の土鬼」の着物の模様を「土鬼模様」と名付けてツイッターで発信する4eknight11氏がいる。「伊賀の今丸」のアカウントで忍者もののツイートをする今入さんは、4eknight11氏に模様の資料を送って盛り上げた。今回の戸田公園での集まりでは氏による土鬼模様の研究発表がされたが、それはマンガ表現が文献資料として新しい段階に来ていることを感じさせる。

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「闇の土鬼」(「横山光輝マンガ大全」より)

今入重一 / 横山光輝作品 ⑮

横山光輝はヒット作を数々生み出す巨人であったが、その立ち位置は手塚や石ノ森ほど派手ではなかった。
過去を振り返るより目の前の原稿を描きに描く作家で、多産な分暗がりに沈んだ部分も大きかったと思われる。そういう難しさに加え、特に出版をめぐるファン活動はしばしばデリケートで制約的なものとなる。ファンと作家側の関係性において横山光輝作品の場合ほど理想的な例も珍しい。

 

横山光輝のファンたちには、高度なリストをつくった江口さんや堀井さんがいた。アップルBOXクリエートの高橋さんはじめ、志ある復刻者たちがいた。すぐれた探究能力をもち、何かしたいという意欲に溢れる人たちがいた。
ひとり、小柄で温厚で、友人のつくったリストに目を見張り、清水の舞台から飛び降りる思いで3万円の貸本を買い、自分はマニアになったと実感するひとがいた。その出だしは手探りだったが、欲しいという思いは揺るぎなく、わき目も振らず買い続けて斯界屈指のコレクターとなった。手に入ったモノを素直に喜び、及ばぬことを苦にせず、他の人たちの才能を認め、いつしか横山作品を世に伝えるかなめの存在となっていた。

 

「誰もがあのひとのファンになる」
わたしに今入さんを紹介してくれたひとはそう言った。
モノを集めることに憑かれた第一級の蒐集家が、人と人とのあいだでそれぞれの活動をひらく柔らかな人格として立ち続けるけることはまれである。
横山ファンの活動は、マニアという存在が次代へ何をしおおせるかを語っている。
そして今入さんの生き方は、蒐集ということが不思議な無私のあかるさに近づいてゆく様子を語っている。




この項、了